夜の声 | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 ダフネを迎えに行くと
 校長とダフネがそろって僕を待っていた
 遅れたわけでもないのに

 「プールに行ったんですって」と話しかけてきた
 「はい 泳ぐのに夢中だったもので」と僕
 「楽しかったのでしょうね
  ダフネが泳ぎの舞いを作ったのよ」
 「泳ぎの舞い?」
 「床に転がらずにね
  水の中を動き回る仕草の踊り
  まるで水の中にいるみたいに
  あっちにゆらゆら こっちにゆらゆら
  ときどき倒れそうなほどになって
  でもとにかく楽しそうにね」
 「そうですか 何時間も泳ぎ回っていたんです」

 「その疲れかしらね」と校長
 「疲れ?」
 「そう 今日は少し怠いみたいでね
  無理な動きしたせいでもないと思いますが
  だから少し早めにやめさせました」
 「日本に来る前はよく泳ぎにいったのかもしれません
  ほんとうに夢中でしたから
  でも昨日も疲れてなんかいないようでしたけど」
 「そう? でもね もしもそんなに夢中になったのなら
  今までの その 新しい生活の疲れみたいなものが
  出たということかも」
 「僕たちといると疲れるんでしょうか」と
 思わず僕は大きな声で聞く
 「いえね あなたたちがダフネを大切にしていることは
  よくわかっています それでも
  考えて 今までとは違う生活だったのよ
  そういうときに 国に居たときのこと思い出したわけでしょ
  そういうことってこの子にだってあるはず
  あなたにはないのかしら」

 そう言われて僕は少し驚く
 僕にとってもダフネとの日々は今までの自分の生活とは
 あまりにも大きく違っていた
 ほとんど状況に関係なく生きているように見えるダフネだって
 このバレの時間を除けば
 まったく違う生活になっていたのだ
 校長の言うとおりだと僕は反省する
 それだけの意味が泳ぐことにあったのなら
 プールに連れて行ったことには意味があったろう
 でもそれを僕はただ
 ダフネが望んだから叶えようとしたのだし
 喜んでくれたから良かったと単純に考えていた
 もっと何か他の影響がある可能性もあるわけだった
 そんなときに
 急にMをダフネに会わせるべきだったろうか

 ダフネは僕を見ると
 いつもは滅多にないことだが
 やわらかに笑った
 でも気のせいか少し力がないように見える

 僕はなんて勝手に考えてばかりなのだろう
 ダフネのためにと願いながら
 もしかしたらダフネがまだ子どもで
 子どもらしく自分の感情を整理しきれずにいるかもしれないことを
 考えてもみなかった
 
 帰りの車の中で
 ダフネはおとなしくシートに座って外を見ていた
 空気は温かで夏が近づいている感じさえしたけれど
 だからと言って夜の景色が変わるわけでもなかった
 最後の登り坂から見た海に
 船の灯りが二つ見えた
 月はどこだろう

 家に戻るとあのひとが帰って来ていた
 「どうかね その後は」とあのひとが聞く
 「またプールへ行きたいとは言いません
  ですが」
 「ですが?」
 「バレの校長先生がダフネもいろいろあったから
  思い出のあるような海で泳いだのなら
  気持ちも揺れるのかもしれないと仰っていました
  考えが足りなかったのかもしれません」と僕
 「何が足りないって」とあのひとが僕の顔を覗き込むように言う

 「急で申し訳ないんですが
  この前言っていた人を明日連れてこようと思っているんです
  いいでしょうか」と早口に言う
 「この前の?
  ああダフネのことを少し見てもらえるかもしれないと言ってた
  そうか そうだった そうだったな
  うっかりしていた それはよかった」
 珍しくあのひとは思い違いでもしたように言って
 目を両手でこすった
 「お疲れですか」と僕
 「ああいや 歳だよ歳 気ぜわしい空港とか駅とか
  まあ歳にはだれも勝てないさ」

 そう言ってあのひとはいつもの自分の椅子ではなく
 ダフネがぼんやり座っていた隣の僕の椅子に腰を下ろし
 立っている僕を見上げるようにして
 「で何時だね」と聞いた
 「すみません ダフネを迎えに行って
  そのときに連れてこようと思っているので」
 「夜か 待てよ だとしたらお客人は泊まっていくのだね
  部屋をどうするかね」と
 僕は自分の間抜けさ加減に腹が立った
 そんなことまで全然考えていなかったからだ
 「いや まあその時になってみないと
  すぐ帰ると言い出さないとも限らないので」
 「ほお あまり外交交渉的ではないようだな」と
 あのひとは笑って言う
 「よかろう
  どうやら君もケ・セラ・セラが身についてきたようだ
  いずれにせよ大切な人なのだろうから
  明日はコム・ゴギャンに頼むとしよう」
 「え いや そんなに気を使うようなやつじゃないですから」と
 頭の中だけで僕は言う
 そう 素敵な料理が有った方が
 Mにこんなことを頼むにはいいかもしれないと
 それに帰国歓迎会でもあるわけで
 「すみません これは僕に全額払わせてください」と言う僕を
 あのひとは子どもを見るみたいな目で見ながら笑っている
 「良かろう うんと贅沢な料理を頼むとしよう」

 ダフネはと見ると
 もうテーブルに頭を載せて目を閉じかけていた
 夕飯はまだのはず
 「食事は済みましたか」と僕はあのひとに聞く
 「いやまだだ だが土産に食べるものを買ってきた」
 そう言いながらあのひとが椅子から立ち上がる
 「僕がやりますよ」と僕

 ほんとうに明日Mをここに
 この部屋に連れてくることなんてできるのだろうか
 でもそうすれば
 僕にとってMやダフネがどういうひとたちなのか
 少しはわかるにちがいない
 そう僕は頭の中で繰り返し考えていた

 
 夜
 ダフネが目を覚まして僕のところに来る
 不安気な顔
 「どうしたの」と僕が聞いたとき
 どこかで人が唸るような声が聞こえた
 あのひとの部屋からだと思ったので
 僕は部屋を出て
 あのひとの部屋のドアの外から耳を澄ます
 寝言だろうか
 苦しそうな息に混じってあのひとが何か言っている
 心配になってドアをノックする
 「何かありましたか」と声をかけた

 ものの2分も反応はなかった
 もう少しでドアを開けようとしたとき
 中からあのひとの声が言った
 「ああ 助かった 悪い夢を見ていたようだ
  なんでもないよ すまん」と
 でもそれにしてはいつもに似合わない
 苦しそうな声だと僕は思う
 だからと言って
 あのひとがそう言うのをとやかく聞くわけにもいかない

 部屋に戻るとダフネが僕のベッドに座って待っていた
 不安そうな顔はさっきのままだった
 「大丈夫」と僕は言ってダフネの肩を軽く抱く
 それでも夜中に聞きなれない声を聞いたのだ
 ダフネが自分のベッドに戻ろうとしないのを
 僕はしょうがないなと思ってそのままにする
 ダフネが僕の腕の中に潜り込んだ
 ダフネの甘い匂いがする
 いつもよりはっきりと甘く
 
 あれだけ泳いだのだから
 新陳代謝も勢いづいたのだろう
 それにスイカズラの匂いも
 ダフネにまとわりついて離れて行かないのか

 「大丈夫だよ」ともう一度言って
 ダフネの頭を撫でてやる
 ダフネは何度かその僕の手に自分の手を重ねてから
 静かになった

 僕にはこの素晴らしい三人と
 うまくやっていく能力と資格があるのだろうか
 そんなことを考えて
 あのひととはたぶん全く違うのだが
 僕はなかなか眠れなかった


 耳を澄まし息を殺して
 やっと海鳴りがかすかに聞こえるような静かな夜だった