言行一致と言ったり不一致と言ったりする
言葉では忠誠を誓い行動では裏切ることもある
逆に言葉では敵対しながら行為では愛し合う
そういう表現のあり方は
言葉と行為が別のものであり
しばしば相矛盾し
ときには敵対するものだと言っているようだ
けれど
例えば英語やその大元の言語では
理解するという意味のcomprehendは
つかむ
把持するという意味のprehendから作られた
言葉はただ伝えるための道具であるときも
それを受け取った人が理解しなければならないし
伝えないときですら
人は多くのことを言葉で理解する
そのさまざまな理解の元
あるいは素になったのが
つかむという行為だとしたら
言葉と行為はむしろ同根のもの
あるいは
mama motherのmの音は
ときにはbの音だったりもするけれど
基本的にはその音は
人間が
乳を口に含んで育つ哺乳類であり
母親の乳首をくわえ吸うときの
唇の形からくるのだという説もある
そういう言葉の源の話だけでなく
言葉はときどき
ある状況でその言葉を発したことが
その行為そのものが重要であり
言葉の意味よりもそれを発した行為そのものに
意味があることもある
歴史書をひも解けば
そういった行為としての言葉の例が
数知れずある
政治的な発言でも知られるチョムスキーが
言葉は人間の脳にあらかじめ用意されたものだと説き
それは行為以前のものだと主張したとしても
それはどこか宗教じみて聞こえ
ユダヤの神が言葉であったという信仰の
焼き直しとさえ僕には思える
エヴェレットの『ピダハン』は
チョムスキーの信仰じみた言語観に異議を唱える
ピダハン族の言葉はどこか原始的な宗教の
匂いを放ちながら
行為が言葉の母であることを教えている気がする
ダフネの言葉は
チョムスキーの愛した文法らしきものをほとんど持たないが
行為である踊りと一緒になって
明らかな意味を形作っていると僕は思う
ダフネの自分なりの踊りは
言葉のように何かを
少なくとも僕には語りかけ
次第に真新しい文法めいたものすら持つように
なってくるのではないかと
この頃僕は感じるし考えもする
そしてそれは
何か使い古された
形式ばった言葉ではなく
一つ一つの単語のなかに
もう十分深く刻まれた意味と
意味を支える行動の構造を
生きた日々のダフネの行為を支える生きた構造を
持っているのではないかと
僕は最近つくづく思うのだ
いわば原始的な言葉としての
ダフネの振る舞いを
僕は見つめ理解しようと努め
そしておそらく
愛してもいる
僕にとっての言葉
それはダフネの言葉とは違って
むしろ出来上がった言語の中で
僕が考え
言葉以前の感情をも
むりやり言葉で表現しようとしているが
ダフネはそれを軽々と超え
踊るように
抱くように
ときには走り歩き飛び跳ねるように
新しい彼女自身の言葉を創造する
言わば
ダフネは僕にとり
「行為のような言葉」のミューズ
僕が探しつづけている言葉の模範
その言葉を読み取ることが
次第に僕の歓びの中心に位置するようになる
ならば
「愛する」という言葉の原初の行為は
ダフネの辞典では
あるいは文法書では
どのような形になるのだろうか
と僕はときどき考える