季節の変わり目のせいか
それとも仕事に傾けたエネルギーと時間のせいか
昼食の後に睡魔に負けて
僕は二階の窓を開け放って
薄いパジャマのまま
吹き込んでくる五月の風のなかで眠り込む
明るい光が部屋を満たしているのに
僕は目を開けずに眠り夢を見る
昨日だったか
竜宮の遣いが浜に打ち上げられたと
漁師たちが言っていた
7メートルいや10メートルもあったと
長い冠飾りとオールのような腹鰭の深海魚が
騒ぐ風におびき寄せられたのか
近隣には昔からこの地方だけの竜宮伝説があり
その竜宮はいくつかの岬を延長した線の交点の
さほど深くはない位置にあるのだと
海の底にではなく
中層に浮遊する竜宮城は
潜る漁師たちの前に現れたかと思うとまた
どこへともなく流れて消える
ぼんやりとした頭で
潮風にもてあそばれるように
岬から降りる坂道を歩いていた
碧い海の水面の下に
斜めに浮かび上がってくる竜宮の遣い
白い身体をゆっくりと揺らしながら
「おひさしぶり」と
遠くから僕に呼びかける
「あなたと過ごした日々は
竜宮の太い柱になり
私の記憶になっている
悲しみは消え
私は私の主のもとに戻れた
あなたが連れてきた夢のおかげだった」
その声は何処かで聞き覚えがあった
「来なさい
今日はあなたを連れていく
わが主のもとへ
五月の風がすでにあなたに
招待状を届けたはず
風があなたを包み
水底にあっても息を保つだろうから」
その声が終わらぬうちに
また一頻り潮風が哮って
断崖の小径から
僕を抱き上げた
風と飛ぶのは何と快いことなのだろう
泳ぐときに海が僕の身体を包むように
風は僕を包んで海へと運んだ
涼やかななかに微かにほの温かい匂いがした
風の腕が僕の首に絡みつき
首筋の後から甘い吐息を吹きかける
このまま波打ちつける磯の岩に落ちて死ぬのなら
きっと死は怖れる必要のない
安らかで甘いものであるにちがいない
そのまま僕は
風に包まれたまま深い青に滑り込む
光が揺れる
水の中にいて身体は水を感じるのに
口を開けると
甘い風が流れ込んでくる
竜宮の遣いが間近に来て
僕の周りを美しい螺旋になって回りながら
先導する
僕はこの魚を知っている
出会ったことはないはずなのに
この海に来るたびに
言葉にならない言葉を交わしたような
「お前は?」と僕は聞く
「私はあなたの腕に私の印章を残した者」
「印章?」
「そう
私の主の一族の忘れがたい刻印を」
そう言ったのが聞こえたとき
碧い海がおびただしい数の小さな魚の群れに変わった
まるで熱い南の海
珊瑚礁の魚たちのように
潮に流されては泳ぎ戻り
草色や鮮やかな紅の鱗が水中の波頭のように
きらきらと光る
僕の頬に耳に
僕の腕や足にも魚の雨が降り掛かる
長々と底から明るい水面に向かって伸びた藻類の城壁
青白い光の渦の甍
その中から声が
また聞き知ったような優しい声が聞こえる
「ようこそ
私たちの親しき友人
蘇る海の音と光と流れをもって
深々とあなたを抱きしめさせてください
あなたは
ここに棲むべきひと」
緩やかにたゆたう潮の流れに沿って
水の奥から溢れ出す海の泡立ち
その泡立ちに見え隠れする女王はまだ若く
青白い肌に藻類の衣を身にまとい
身長ほども長い髪が頭から
僕の方に揺れながら伸びてきて
僕の肩に触れる
目は夢見るように閉じたまま
他に人影は見えないのに歌が
数多くの者が歌う声が聞こえる
女王の腕が落ちて行く僕を抱きとめて
合唱が声を震わせて歌う
「あなたを帰しはしない
あなたはここに
海の城に棲むべきひと
あなたを
老いる人間たちのもとへは帰しはしない
待ちに待った日が来たのだから
もう二度と
あなたを帰しはしない」
シーアネモネにとらわれた小魚のように
僕は海の女王の長い髪に絡みつかれ
身体が次第に痺れて動けなくなる
女王が顔を近づけて
ふっと息を吹きかけると風の力が急に萎え
僕の喉へ身体中へ
海水が流れ込んできて
僕は溺れそうになる
「わたしといつまでも一緒に」
そう言って女王が目を開くと
美しい灰色の瞳
そこに海の青が映り込み
瞳を見ている僕の意識は遠のいていく
息のできない苦しさと
甘い匂うような幸福感の奇妙な混濁
僕が目を閉じると
僕は目が覚めてベッドの上の風のなかにいた
首筋に温かな風を感じて振り向くと
だぶだぶパジャマのズボンだけのダフネがいる
僕の背中にくっつくように
目を閉じて眠っていた
やわらかなパンのような丸い肩が呼吸につれてゆっくり動く
見ると腕に隈笹か何かでこすったような
幾条かの引っ掻き傷があった
きっと袖無しの服を着て
また小径の草叢を走り降りたのだろう
朝にはなかった傷だった
傷は微かで明日にも消えそうだったが
その形は僕の腕にまだはっきりと残っている
モーゼの爪痕にそっくりだった
あの竜宮の遣いは
転生したモーゼだったのかもしれないと思う
ダフネが夢でも見ているのか
少し動いて
右腕を僕の胸の上に載せて
唇を動かして何か言った
ダフネが僕と同じ種族なら
きっと五月の風の虜になっているにちがいない
ダフネは夢の中で何と言ったのだろう
僕の右腕にやわらかなものが触れる
そのダフネの乳房と僕の腕の上で
窓際の木の枝が作るレースの影が
泡立つ海のように揺れていた