砂の仏 | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 ギリシャの影響の強かったガンダーラの時代から
 インドらしさが深められていったグプタ朝の時代

 特に仏陀がその悟りを五人の修行者に初めて伝えたという
 初転法輪の地である鹿野苑で知られるサールナート
 そこで形成されたサールナート様式は
 服の襞を消し去って
 身体の形がそのままに浮き上がる
 肉感的と言うこともできるが単純化された形とも思える
 あるいは砂岩という柔らかく少し脆い素材が
 そういう形式を生んだのかもしれないが
 姿を写すという精神が
 写実から様式美へと移っていったのかもしれない

 ほとんどは同じモチーフの仏像なのだが
 僕にはこの時代の彫刻に
 小さいときからずっと続く愛着がある
 
 歴史書や仏教哲学の本によく入れられる
 サルナートの初転法輪の仏陀の像は
 鼻や指の一部を失っているものの
 静寂と穏やかさとやさしさが一体となった表情が
 丸い顔だち
 額に円弧の眉
 静かな半眼
 ふくよかな唇が
 僕を惹きつける
 僕はその顔を人には求めたことはない
 ただ悟りから間もない仏の顔として
 美しいと思い続けている

 手はいわゆる転法輪の教えの印を結ぶ
 さまざまな指の組み合わせの像があるけれど
 右の手は相対する者に向き
 人差し指と親指で輪を作り
 左手は自らに向き
 中指と親指で輪を作る
 両足は見事な結跏趺坐
 交差する両の踵の上に見える臍
 すべてが人間であるゴータマの
 生きた形を歌いながら
 教えるものの神々しさを示すのだ

 台座の五人の修行者と
 善女とその子の姿の真ん中に
 横を向いた糸車のような法輪と
 それに仕えるかのように座る二頭の鹿
 克明な神獣と植物に彩られた光背の
 上部左右の飛天
 何か
 それ自体が宇宙であるかのように
 自ら成り立つものに見え

 中国や日本の仏像がすっかり
 信仰の対象となって人間であることを失ってしまったのに比し
 サルナートの覚者の像は生きた人であることを
 人であるそのままに覚者であることを
 歌っているような気がする

 おそらく僕は十歳にもならない頃に
 この像の写真を見たのだと思う
 それ以来さまざまな仏像を見たけれど
 これ以上の仏の像はないと

 この像にそれほどまでの思いを抱く理由は
 まったく分からず無いのだとさえ思う
 菩提樹の下の悟りのひとの姿ではなく
 ただ在ることと伝えることのみが
 形となってそこにある姿だと

 僕が死ぬ前に必ずサルナートに行き
 この砂岩に彫られた像をこの目で見たいと思うのは
 幼い頃から僕の中にあったひとに
 間近に会ってみたいというような
 深い郷愁の感情なのかもしれない

 この像に打たれた人が少なくないことは
 この像が幾度となく
 数多くの人によって復刻され
 石や鋳鉄
 木彫りの像がいろいろな寺院にあることからも
 よくわかる

 僕もただその幾百幾千の人々の
 ただ一人に過ぎないことを
 僕は満ち足りた気持ちで受け止める

 人を愛するとは伝えることだと
 おのが思いを余すことなく
 慈しむべき相手に伝えることだと
 この仏を見ると思うのだ
 
 ただ在ることと伝えることのみが
 覚者の形となってそこにある

 いのちの輝きの
 有りうべきありさまとして