「迷いを捨てろ」と言われたとき
その言葉で胸をドンッと突かれた気がしたが
何かに迷っているとしても明確な自覚はなかった
ダフネのこと
僕の将来
それからその二つがどこかでつながっていくのかどうか
そういうことの迷いなら
いろいろとある気がする
それらとこの日の会話とは必ずしもつながらない
確かに僕は父を多少とも身勝手な所のある人だと思っていた
僕を連れていくかと思えば置き去りにし
そういうときは僕は母といて
母がいないときには祖父母と暮らし
さらには目の前のこのひとのところにいたらしい
だからといって無視されていたわけではなく
そういう生活のおかげで僕が学んだことも多かった
あのひとの言うように
晩年は
早い晩年だったが
写真家稼業もほどほどに戦地や貧窮する人たちのそばに居ようとし
僕たちは取り残されていた
けれど父が僕を忘れたりないがしろにしたという印象はない
ひとびとの膨大な数の写真が届けられ
父は僕たちに話しかけ続けたから 写真でしか語りかけられない人だったのだ
そのこととあのひとが言う「迷い」とはどうつながるのだろう
あのひとが言ったように
「誰か人のために生きることが君の人生を台無しにするのではないか」
と怖れているというのは少し当たっていた
ダフネとの時間が長くなりダフネに巻き込まれているという感覚が
時間とともに増してきていた
でもあのひとは
「怖れているならそれは間違っている」と言った
「君は逃げ出したいと思うこともあるのだろう
しかし一方で逃げ出せずにいる
それも縁(えにし)ということだ
それは運命とか赤い糸とかいうような文学的なイメージではない
ただ現実の問題として関わり合いができてしまった以上は
逃げるとか逃げないとかいうことにはならないのだ
そうなった以上
そうなったにはそれなりの理由があるだろう
それを君が理解していようがいまいが
君が通りかかって
ある人が財布を落とす
それを見なければ君は通り過ぎて行くだけであって
落ちた財布には何の意味もない
けれど
ぱたりと落ちた音が気になって見てしまえば
そのまま行き過ぎようが拾ってその人に渡そうが
もう関わってしまったことに変わりはない
知らん顔をすることもできるが
知らん顔をして通り過ぎたという事実は残る
偶然が
君が音に気づいて足下を見たときに
ただの偶然ではなくなるようなものだ」
縁
それは偶然か
予定されていたことなどとは言えないが
関わったときにはもう偶然ではない
それは分かる気がした
だからダフネを愛せと?
そう
僕はダフネを愛しているだろう
もはやダフネを放り出して逃げ去ることはできない
しかしそれは
僕がダフネを妹か娘のように愛し始めているというだけで
恋人として
夫婦として一生を共にするようなことではない
一生でなく束の間の時間であったとしてもそうではない
ダフネが裸で抱きついてきても あまりにも平然と投げ出されたダフネの身体は
僕にとって恋する恋しないと考える余地のないことだった
美しいかどうかということなら僕はイエスと言う
けれど美しいということと関わり合うことは全くの別次元
あるいは
年齢が合わないということがあるにせよ
もしも誰か他の
フツウの女の子がダフネほどに育ち盛りで
裸で僕に抱きついてくれば
僕は年齢を忘れたかもしれない
恋することが許されることに年齢などありはしない気がする
社会制度が許さないということがあるなら
それこそ時間を待てばよいだけのことだろう
ただ
ダフネをあるいはその裸の姿を美しいと思うことと 欲しいと思うこととがこれほどまでに食い違っていることを
正直僕は説明できなかった
このダフネとの関係は今まで僕が経験したことのない種類のもので
良識や倫理観・社会制度というものが
ダフネと僕を隔てているのではない
要するにダフネは僕を恋してはいないし
僕にはダフネの気持ちひとつ分からなかった
そういう「気持ち」とか感情というもののないところに
恋などあろうはずもない
それどころかダフネには感情そのものが
どの程度まであるのかもわからない
「君はダフネの心が見えないから戸惑っているのかもしれないが」
と会話からずれて勝手に進んでしまっていた僕を見透かしたように
あのひとが言った
「それは君が言い張るように恋とか愛とかではないにせよ
あるいは親や兄弟のようにさえ感じていないにしても
そしてどういう理由にせよ
ダフネが君のそばにとどまろうとした事実を
君は忘れるべきではない
そしてまたどういう理由であるにせよ
君はダフネをそばに置いておきたかった
君たちふたりの同意がどういうものであるかは
問いたいかもしれないが
今問いかけても何も返ってはこない
ダフネからも君自身からもだ
だから知ろうとするなと言いたいのだ
その答えが決まるまでは」
「いつまでも決まらなかったら?」と僕は尋ねる
「それはまたケ・セラ・セラだろう
『いつまでも』とか『永遠に』などということは
人間の世界には無いことなのだ
君にはそれほどに永いと感じられるのだろうか
まだ君たちは出会って一ヶ月も経っていない
『永い」は明らかに時期尚早だよ
いつか『何だそうだったのか』と言うことになるかもしれない
ならないかもしれない
そしてそれまで君たちが一緒にいるかどうかも
今はわからない」
「じゃあ何を迷うなと言うのですか」と僕
「簡単なことさ
ダフネと一緒にいることだ」
「でもダフネが何を思い考えているか分からないままに?」
「そんなことはいずれ決まることだろう
決まれば分かるはずのものだ
それにそんなに君は
ダフネの心が
あるいは君自身の心が知りたいのかね
いや
改めて聞いてみてもいい
心なんてものはそんなに必要なことなのか」
ずっとテーブルに頬をくっつけて僕たちの間に座っていた ダフネが頭を起こし 手を伸ばしてきて僕の唇に触って 「ファントモ」と言った
そういうことなのだ これはきっと 「ファントモ」ということなのだと 僕は思った