寝つくのが遅かった割には深く眠ったらしい
ふっ切れた気分で目が覚めた
ダフネはもうベッドにいなかった
さっさと着替えてスタンバイしているのだろう
空気が日増しに暖かくなるのがわかる
一階に降りると着替えたダフネがジグソーの前に座っていた
家の主が新聞を半開きに持って
ダフネの方を覗き込んでいるところだった
声に出さずに顎をちょっと動かして『見てごらん』と言うので
ダフネの前に回って見ると
真っ白な四角の広場とそのすぐ横の桜色の蟻塚群はそのままだったが
新しい図案ができていた
一所に集まったように立っている蟻塚を中心にして
そこから反時計方向に広がるピースの渦巻き模様
大きな桜色の巻貝のようになっていた
巻貝の一番外側は白い広場の三分の一近くに重なっている
長方形のキャンバスの上に
部分的にオーバーラップするピンクの巻貝
なんだか科学空想小説に出てきそうな
新しいナスカの地上絵
見ようによっては四角い壁の上にいるカタツムリ
桜色の蟻塚が触角
けれどカタツムリと言うには少し幾何学的過ぎた
ジグソーの箱を見るとピースはもう一枚も残っていなかったので
積み上げられなかった残り全部を使ったらしい
「なかなか面白い造形じゃないかね」とあのひと
「そうですね」と僕
何の意味があるのかわからないけれど
それなり形として美しかった
それにしても正確な螺旋だった
極座標なら r=a+bθ のアルキメデスのスパイラル
つまり半径が回転とともに増していってできる図形
蚊取り線香の渦みたいな螺旋なのだけど
ダフネのは最後の方の半径が急に長くなって伸び
テーブルの下にまで来ていた
r=a/√θ のリチュースと言ったか
どういうのかというと
羊の角ぐるぐる巻いているけれど
その角のぐるぐるから長い羊の鼻の線にヒューッと延びて
無限の彼方まで行ってしまう
地球を何回か回った衛星が勢いにのって放り出されて
遥か彼方の銀河にまで行ってしまう感じかな
でなければ遠くからやってきた彗星が
大きな星の周回軌道を回って星に吸い込まれて行く軌跡
オウムガイみたいなのは対数螺旋 r=ab^θ で
僕はオウムガイのどこまでも同じ形が繰り返すのが好きだけど
リチュースに似たダフネの螺旋は外側が間延びしている
これを二つつなげたのがクロソイド
ちょうど周回軌道を何度か回って放り出された人工衛星が
すぐ傍にいたもう一つの地球に今度は吸い込まれていく
その地球一つが一つの目だとすると
二つの目を緩やかな線で巻き込みながらつないだのがクロソイドだ
ちょっと漫画の蛙の顔みたいにも見えるけれど
クロソイドの名前の起こりはギリシャ神話のクロソー
「紡ぐ者」という意味で
そう言えばクロソイドの半分は糸車のように見える
クロソーは三人姉妹の運命の女神の一人で
彼女が紡いだ運命の糸を一人一人の人に割り当てるのがラケーシス
それをあるところでプツンと切るのがアトロポス
アトロポスは「避け得ないもの」という意味なのだそうだ
そうダフネの螺旋は糸を紡ぎ出して糸をさあっと
長い腕で遠くまで引き出したような形だった
いずれにせよダフネの描いた螺旋は
非常に正確で計算して描いたもののようだった
「これ どうやって並べてましたか」とあのひとに聞く
「いや 私が来たときにはダフネはテーブルの下まで来たところだったよ」
ダフネはもう既に何度も僕にとって予想を超えてきた
けれど昨夜から今朝までにダフネが作った世界は
もしかするともっと予想外のダフネの始まりかもしれないと思う
そうなったとき僕はダフネと今までみたいにやっていけるだろうか
「さあ さっさと食事を済ませて出かけなさい
帰りはともかく行きはコンスタントでもいいだろう」と
あのひとが言った
「今日は私もちょっと出かけてくるから帰るのは夜遅くなる」
夕方僕は6時には学校に着く
言われたように適当に早くしたり遅くしたりすれば
ダフネは時間に少し寛大になってくれるかもしれないと
早く出るついでに寄り道して僕はもうひとつジグソーを買ってきた
イスラムのモスクの壁を彩る細かな幾何学模様のジグソーだ
桜の花は蟻塚になり絵の無いジグソーは完成された
ならば絵でも白地でもない模様のジグソーを
ダフネはどう扱うだろう
もし白地のジグソーのように完成させるとしたら
是非そのやり方を僕は知りたいと思ったのだ
それはダフネに対する関心と
少しばかり自分自身の仕事にもつながっていた
でもこの3つめのジグソーはけっきょく箱を開けることなく
終わってしまった
家に帰るとダフネはまるで
自分が作った砂の城が
まだちゃんとそこにあるか知りたがる子どもみたいに
急ぎ足でリビングに向かった
僕が玄関を閉めたとき
リビングからダフネの甲高い叫び声が聞こえてきた
それはせっかく作った砂の城が
波にさらわれた子どもより遥かに悲痛な
まるで地震のなかで子どもを見失った母親のような声
行ってみるとダフネは凍り付いたように立ち尽くしていた
真っ白な四角も蟻塚も出かけたままの姿だったが
ある部分だけが出かけたときと完全に違っている
最初はなぜダフネが叫ぶのか分からなかったが
よく見ると
左巻きの螺旋があの正確さのまま右巻きになっていた
それに気づいたか気づかないうちに
ダフネは跪いてダフネの作った小宇宙を
そしてその一部が作り変えられた宇宙を
両手でつかんだり撥ね除けたりして
完全にぐしゃぐしゃにしてしまう
ピースが裏返ってカーキ色の背を見せているのもあれば
桜と白壁が混じって大風が吹いた後の桜の園のようになる
ダフネはこうなると手に負えなくなるに違いない
僕は反射的にダフネを抱きかかえ
ダフネが額や手を板張りのフロアに打ちつけるのを妨げた
ダフネは僕の腕の中で暴れのけぞって
だだをこねる子どもみたいに足で僕の腹や胸を蹴る
ダフネが静かになるまでに30分くらいはかかったろうか
僕はダフネを絞め殺しそうなほど強く
羽交い締めにして抱いていた
そのとき誰かがダフネの向こうをスキップしながら通り過ぎる
「だって左巻きはおかしいわ 右巻きにしなければだめなのよ」
でもそれがダフネ2なのかどうか確かめる間もなく
その誰かは通り過ぎて消えてしまった
落ちつきかけたダフネを僕は足の上に抱きかかえ
ダフネの荒い呼吸と脈打つような身体中の血管を感じた
最後にダフネは僕の首の後に両手を回し
僕の顔に自分の顔を押しつけたまま静かになった
1時間後
僕はダフネが目の前でまるでロボットのように勤勉に
一枚一枚のピースを確認しながら
見て合っているものは図形の中に
合わないものはピースの山に戻し
そうやって
朝と寸分違わない小宇宙を再現するのを眺めていた
螺旋のピースがどのように選ばれているのかはわからない
けれど一枚ずつ確認して選別し並べていったのは確かだった
僕はダフネの感情がどのようにうねって過ぎたのか
つかみきれず
それどころか
小宇宙を作っている目の前のダフネに
感情というものがあるのかどうか
少しだけ疑い始めて
その疑問符を右巻きの螺旋のように引き裂いた
そうして僕とダフネの間に
理解しがたい距離が広がっているのを感じながら
奇妙なことに
容易には
解読できないダフネというパズルを
僕は愛しているのかもしれないと思った
解読できないパズルのままに
それとも
それを解きほぐして答えを得るために
二つ目の場合
僕はダフネを愛しているとは言えない気がした
ダフネというパズルを
好奇心から手放したくないだけだと