ダフネの虹 | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 それから二日ばかりは習慣が作り出されていった
 あのひとが言ったように
 ダフネは踊り
 春が満ちてきた
 電車での送り向かいは試みられることがなかった
 そうやってすべては変わることなく過ぎていくだろう
 僕も岬の突端の施設に挨拶に行き
 浜辺とは違う海の匂いをかいだ
 ダフネにいっぱい分け与えられた時間のなかに
 僕の元からの時間が混ぜ合わされて
 ダフネと僕の風変わりな生活が少しずつ形をとり始めた
 それでも僕はまだ
 崖の上の家に引っ越してくる気にはなれなかった
 それはまだ僕の真新しい
 始まったばかりの習慣で
 ダフネのいなかった頃の習慣とは完全に入れ替わっていない

 日曜の朝
 僕はダフネをバレには連れていかないことにした
 「365日休みはありませんよ」とあの厳しい生き方の校長は
 言ってくれたけれど
 今日はダフネとそれから相変わらずのあのひとと
 過ごしたいと

 ダフネが降りてくると
 それを見たあのひとが言う
 「昨日までのダブダブはパジャマだけれど
  あれは『パジャマ』ではないよ
  パジャマはインドのだぼだぼズボンだからね」
 「知ってますよ」と僕は笑って言い返す
 「でもね ネグリジェと言うと何だか色っぽい女性が
  ほらすけすけのやつ 着て歩いてくるみたいで
  好きじゃないんです 言葉としてね」
 言葉はできたときの意味などすぐに失うものだ
 失っていろいろな色合いが染み付いて汚れていく
 ネグリジェという言葉はどうしても
 ダフネには似合わないと僕は思う
 セクシーなネグリジェは誰か見るものを意識したものだから
 人の視線を理解しない野性のダフネには不似合いだから
 たぶんネグリジェだって最初は
 気ままな普段着で「かまわない服」という意味だったのかもしれない
 言葉に染み付いていくいろいろな意味を
 僕は少し煩わしいと思う

 ダフネが降りてくる前に庭に出て海を見た
 小さな光の粒を煌めかせ
 海に深みがあるとは思えない穏やかさだった
 暖かな風が吹き寄せ
 僕のシャツの中に入りこんできた
 きっとダフネの少しごわついた生地の「パジャマ」の中にも
 風は入りこんでダフネをくすぐっていくだろう

 食事を済ませると
 ダフネは着替えもせずに板張りの床にぺたりと座った
 今日は学校には行かないと誰も言わなかったのに
 時間を気にした動きを僕がしていないのを
 ダフネは感じとったのか

 コーヒーの香りが広がっていた
 ダフネがまたふいに立ち上がり
 買ったままになっていた色鉛筆のセットを手にとって
 立ったまま蓋を開けて見る
 そうだった
 ダブダブのパジャマと色鉛筆はダフネが欲しいと
 言葉にならない言葉で言ったものだった
 僕は同じところに置いてあったスケッチブックをとって
 ダフネに見せてから床に置く
 ダフネは絵を描きたくて色鉛筆を欲しがったのだろうと

 ダフネは開いたスケッチブックのそばに座って
 何も描いていない白い紙を眺め
 それから色鉛筆のケースを横に置いた
 僕はダフネの後ろに立って
 そこにどんなダフネの思いが描かれていくのか
 知りたいと思う

 ダフネが手に取ったのは白だった
 白?
 白で何を?
 でも僕は何も言わない
 ダフネは白い色鉛筆をそっと紙の上に置く
 紙の短い辺と平行に
 それから次の色
 そしてまた次の色
 瞬く間に正確な24色の平行線ができあがる
 色の順序も
 一本一本の間隔もケースの中にあったときと同じ
 スケッチブックは描きやすいように大きめにしたから
 白い紙の隅に寄せられた平行線だった

 でも僕にはそれがとても美しい絵に見える
 ダフネだと思う
 ダフネらしい絵なのだと

 ダフネはその24色の虹が完成すると
 しばらく眺めてからまた
 一本一本ケースに戻し始める
 美しいダフネの虹は消え白い空が残る

 僕はダフネにはきっと無限の時間があるのだろうと思う
 
 そうやってあっと言う間に午前が過ぎて行ったが
 ダフネの年長の仲間たちは
 飽きることもなく
 ダフネが虹を描いてまた消すのを眺めていた

 
 昼御飯を食べながら僕はあのひとに聞く
 「ねぇ どうしてダフネを?」
 それだけで了解したあのひとが言う
 「私はダフネが好きになったのだよ」と
 不思議な答えだったので僕はあのひとの目を見る
 いろいろと言われた仕返しがしたくなって僕は聞く
 「恋ですか」
 困ってあのひとが笑いながら『まさか』と言うだろうと
 でも答えはあっさりとしていた
 「そうらしい」とあのひとは真面目な顔で言う
 「綺麗な子だ」
 息ができなくなって僕が黙ると
 笑ってあのひとが言う
 「心配してはいけない 私はダフネを君から盗ったりしないよ
  私の出会った子どもたちに私はたいしたことはしなかった
  ただ不思議さに見とれて施設の先生たちの運営を
  助けることができればと思っただけでね

  それでもずっと何かもっと彼らの身近なことで
  できることはないかと思っていた
  仕事をしているときにはできないことだったがね
  君は例外だったわけだが」と
 「それが恋なんですか」と僕は聞く
 「そうさ」とあのひとが言う
 「私はダフネがいつか君と一緒に生きる夢を見ているのだと思う
  たぶん叶う日を見ることはないだろう」
 
 そう言われて僕はこのひとが「恋」と言った意味を理解する
 きっとそれは叶わぬ夢の同義語かもしれないと