幻想の船を降りて | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 幻想の船を降りて
 現実の陸地に降り立つときだ
 四月も上旬を過ぎようとしている
 僕は僕の現実へ戻らなければならない

 しかしそれは僕がダフネをこの崖の上の家に
 残していくことを意味していた
 同じ部屋の中で眠るダフネがひとりで
 ここに残ることは可能なのだろうか
 既にダフネは猫のようにこの部屋に馴染んで
 仮に僕がしばらくは居なくても
 家という周囲の変化がないのなら
 問題なく
 ここで暮らしていけるのかもしれない
 
 ここから通うという手もあるとあのひとは言ったが
 それはほとんど実際的なことではないと思う
 僕の部屋とこの家を隔てている時間

 「様子を見るということだよ」とあのひとが言う
 「最初から完全な対処の仕方などありはしないから
  最初は毎日でも君は汗を流して通うのだ
  そのうちダフネの様子を見て
  毎日でなくてもいいかどうか考える」
 「それはそうでしょうけれど
  ダフネはただ毎日この家に居て踊り明かすのですか
  浜に出て行ったり来たりして
  それじゃあダフネの生活は以前より空白になる」
 「そういうことだな
  だから君がダフネの共稼ぎか未婚の親になればいい
  朝ダフネを連れてバレの学校に行きダフネを置いていく
  学校は夕方いや場合によっては夜まで開いているはずだ
  君は帰りにダフネを拾ってここに戻る」
 「聞いていると
  ここが拠点になるような言い方ばかりですね」と僕
 「別にそうと決まったわけではないさ
  君がいいというならダフネは君の部屋に連れていけばいい」

 それはまたもっと不可能な気がした
 僕の部屋はここのようにがらんと広くはなかったから
 本やいろいろなものがあってダフネの部屋を作り出すことは難しかった
 「人目が気になるということかね」と
 あのひとが少し同情するような顔を作って言う
 「それもないわけじゃないですが
  もっと気になるのは僕の部屋は7階にあるということですよ
  ダフネが窓を開けベランダからふっと身を乗り出せば」
 そう言いかけて
 ダフネの白い服が柔らかな鳥のように
 でも鳥とは全く違ってまっすぐに落ちていく姿が浮かんで僕は黙った
 「ここも断崖の上だ
  ダフネは飛び降りたりしなかったが」
 「それは数日の しかもいろいろなことが起きた中でのことじゃないですか」と
 どこまでこのひとが真面目に物を言っているのか僕はまた疑い始める

 「それも様子を見るということだな」
 「どれもこれも様子を見るだけなんですか」と
 少し苛立って僕が言う
 「その通り」と泰然としてあのひとが答えた
 「君には信じられないかもしれないが
  何十年もこの馬鹿げた世界で生きて来た私からすれば
  現実なんてものはいつも勝手に作られ
  そしてあわよくば勝手に作れるものだというのが実感だよ」と
 半分笑ったような顔をして肩をすくめて見せた
 「あわよくばですね よくなければどうなると」と僕
 「さあ そうなったらそうなったというだけだ
  足掻いても成るべきものは成る ケ・セラ・セラ」
 茶化すような言い方に僕はむっとして黙った
 それを見据えてから「だが」とあのひとが付け加える
 「もう君には他にとるべき方法はないはずだよ
  君はダフネを帰すことに今更同意するのかね」
 僕はまた黙る
 「電車での行き来が無理だと思うなら
  車で行き来すればいい そのくらいの経費ぐらい
  屁でもないことだ」
 「屁ですか」と僕は上の空で言う

 「考えてもみ給え 世の中には難題を抱えた人たちが
  ごく当たり前に当然にだ
  当然のようには生きられないものを背負った人たちが
  あまた居る
  その人たちは『無理だ』と言ってみな自殺でもしたかね
  愚かな試行錯誤で
  他にとりようもない道を歩いて生き延びる
  メチャクチャな生き方でもだ
  そういう人たちで世界は溢れかえっている
  君だけが恵まれて
  合理的で最適な生活を死ぬまで続けられるとでも
  思っているのかね」
 「いえそういうわけでは
  ただどう考えてもとてつもなく非現実的な気がしているんです」と
 僕は正直に言う

 あのひとが嬉しそうに笑って言った
 「そりゃそうさ ことの起こりのすべては非現実さ
  それが現実として終わるのか非現実のまま消えるのかは
  誰にもわかりはしないことだ
  わかろうとしても無駄だということだよ
  その前に世界の方から君がすべきことを言ってくる
  わかるなんてことが起きる前にだ」
 僕はその通りかもしれないと思い始めて反論しなかった
 「その証拠に君は今
  ダフネを街まで連れて行こうと思っている
  ダフネに
  まるで血のつながらない兄貴か若い父親みたいに付き添って
  照れながらかもしれないが
  ダフネにパジャマを買いにいこうと
  違うかね」
 図星だったので僕は首を縦に振る
 「それこそが現実なんじゃないかね
  今しなければならないことだよ
  『現実』っていう言葉が意味しているものは」

 それは確かに僕の日頃の考え方に似通っていた

 「さあ車を貸そう
  免許証を持って来ているのなら
  さっさと行き給え」
 僕は尻を蹴られた犬みたいに立ち上がる
 「ダフネ」と庭のダフネにあのひとが声をかける
 夢なのか
 一度としてこのひとの声に応じたことのないダフネが
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 「もしなんなら君のところまで足を伸ばして
  君が必要なものを持ってきてもいい
  ここに帰らなければならないという規則はないんだ」
 そう言いながら老獪な元外交官は僕にキーを投げてよこした