遅い午後
理由もなく船に乗りたくなった
どこへ行きたいわけでもなかったが
水中翼船の短距離連絡船の案内が
目に止まり
迷うことなく切符を買った
行き先に目的があるわけでも
心惹かれる土地があるわけでもなかったが
海の匂いと
機械油の重い匂いが入り交じり
「来い」と呼んでいた
出航のベルが甲高い大きな音をたてて鳴った
不思議なことに
その甲高い大きな音は実に物静かに
すべて予定されたとおりに事が進むのだと
言っているように聞こえ
走り始めてすぐに
船は飛ぶ速度へと難なく昇りつめ
ごうごうと水を蹴立てる音がしたかと思うと
ふわり宙に浮いたように静かになった
夕暮れ近く
雨の日の海は
水平線は雨にけぶってか定かには見えず
行き交うだろう船の影も見えない
窓には雨と
翼が蹴立てる飛沫が広がり
まるで嵐の中を行くようだ
波が出て来たのか
船は次第に上下し始め
そのたびに
翼に打ち当たる海が大きく唸り
船は軋んで泣いた
ふと思う
翼のある船は海の中を飛ぶ船だ
空を飛ぶ悦びは遮るもののない悦びだ
海を行く悦びは逆らう波のある悦びだと
その抵抗感を超えて行くことこそが
海を行くことだと
でも小さな飛行機で空を飛んでいると
空を行くことは雲や気流に打ち当たり
逆らって飛ぶことだと思い
それから眼下の碧い海原を
しずしずと進む船の姿を見て
海を行くことはまるで
鏡の上を滑るように進む悦びだと思うのだ
やがて日が落ちた
さして長く走りもしないのに
壁の時計と船上案内の声が
もうすぐ目的地に着くのだと思い出させる
船はまるで乱気流の中の機のように
上下して
点けた照明の光の筒の奥底に
黒い海が蠢くように在る
また水飛沫がたった
それを雲の中の水滴のように映し出した照明が
暗夜の船の暗い行く手に
奇妙に煌めいて白く光る波頭を
際立たせ
真白な波が
船の後方へ勢いよく飛び去るのが見えた
この星の命の揺籃である碧い海は消え
飛び魚たちも海鳥たちも消えた暗夜の海で
波だけが白く浮き上がって
なまめかしく
我らこそが
いのちなのだと叫んでは
飛び去っていく
ある一点から時がぐにゃりと引き延ばされて
この運行が無限に続けばよいと思った
誰か
激しく叫ぶ者のそばにずっと居たかった