水鏡の迷宮 | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 暗い部屋の中で
 僕は君を追いかける
 机の上の燭台に君の長い袖が触れ
 炎のままに床に落ちていくとき
 それを喜んでいるかのように
 微笑んでから逃げる君

 寝室の大きな姿見の前で
 僕は不可思議なものを見る
 君が手を長く前に伸ばして
 ふたりの裸を映したこともある
 硬い鏡の面に触れるとき
 まるで冷たい水に手を浸すように
 君の火照った身体が鏡の中へ
 すべりこむのを

 僕は追いかける
 その鏡の扉の鏡の水に飛び込んで
 鏡の向こうは夜の帳に包まれた
 街の路地裏の暗がり
 顔も見えない自転車がチリリと
 ベルを鳴らして通り過ぎ
 君の走る靴音がからんからんと
 響きゆく

 十字路で僕は君に追いついて
 二度と逃したくないと
 君の白い肩を後ろから抱きすくめ
 十字路の真ん中の噴水の縁に
 座らせる
 君は笑ってその薄いシルクの服のまま
 気を失ったように後ろに倒れて
 泉の水の中に堕ちて消え
 また僕は君を別の世界へと取り逃す

 噴水の水底は暗き緑の森
 服を脱ぎ捨てて君は白い影になり
 僕は気づけば大鹿になってその影を追う
 でもその影は小川のそばで白鹿に変身し
 再びするりと宙に舞う

 ああ僕は君をいつまで
 そして何処まで追いつづけるのだろう
 なぜ君は僕に微笑んでいながら
 何かに取り憑かれたように逃げるのか
 近づく度に世界は遷移して
 また君は遠くを走っていく

 白鹿は
 夏の逃げ水の中で蜻蛉になり
 降りくる雨に濡れて妖精になり

 君はいつもほんの数瞬
 僕に抱かれてはまた
 笑い転げながら様々な鏡の扉の
 向うへと消えてゆく

 君をつかみきれない悲しみは
 そうして幾重にも
 異空間が君を吸い込んでしまうのに慣れるうち
 いつの間にか甘くなり
 変幻する君の姿と
 いかにも君を解かし込む美しき背景に僕は酔い
 君は変わっていく自分の姿に酔いしれて
 ふたりとも恋を忘れた

 たぶん
 もう何世紀もの時間が経ったにちがいない
 この鏡の迷宮に迷い魅せられて
 走りやめられなくなった
 二頭の獣が
 振り子のように近づいては離れていく
 絶望の道行きの虜になってから

 鏡を見るひとは
 ときどき鏡の中に
 幾重にも映り込む自分の姿の傍らや
 少し後ろを過ぎていく
 ふたりの姿を見ることがあるだろう
 その機会を除くなら
 ふたりの振り子の振動は誰にも見えぬまま
 ずっと
 いつまでも続いていくにちがいない

 鏡の迷宮に堕ちぬよう
 あなたはあなたのよきひとを
 腕のなかからこぼれぬように
 つよくしっかりと抱いているように

 この迷宮は逃げ出すには
 余りにも甘いということを
 気づいてからでは遅すぎるのだ