風の曼荼羅 | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 氷のように風が冷たい日だった
 なのに薄手のセーターだけで外を歩いたから
 身体の芯まで冷えたような気がした

 戻った部屋ではウィスキーの瓶までが
 冷たくなっていた
 アルコールでは温められないものがある
 のかもしれないと思った僕の
 心臓は妙にバクついていて

 風呂の湯の中で
 長いあいだぼんやりと温まろうと
 時間が過ぎて
 そんなはずがないのに波の音がしたような
 温かい湯舟の中に海があるはずもないのに
 海鳥の声さえ

 でもそれはたぶん風が枝のあいだを
 くぐり抜ける音
 そうでないなら
 鉄塔のか細い骨の周りを渦巻いていく風の鳴き声

 右腕に微かな痛み
 風に負けまいと力み過ぎた緊張の後始末

 昨夜あまり眠らなかったせいか
 忽然と睡魔がもたれかかってきて
 砂曼荼羅の夢を見た
 カーラ・チャクラは宇宙の車輪
 漂泊のダライ・ラマだけが司式する法会の芯の
 宇宙の車輪は身体の要所をつなぐ輪でもあり
 その表象は遥か釈迦牟尼の以前よりあって
 仏陀覚醒の後は仏法輪に写しこまれた

 息を顰め
 口と鼻を片手で被いながら
 彩られた砂粒を
 気の遠くなる集中の永い時間を費やして
 少しずつ落として描き上げる宇宙の絵図は
 色即是空のことわりを具現するように
 完成した瞬間には破壊されねばならない
 何のために絵は描かれるのだろう

 人の五体が生のさなかに
 過つことなく作り上げられ磨かれて
 そして忽然と消え去らねばならぬように
 それでも砂の絵は
 描かれていかねばならない
 僕の指が群青色の砂を弧を描いて台座に落とす

 同じ色の砂が
 それぞれの場所に寄り集まって線となり
 縁となり形をなしていたものを
 束の間吹いた風に似た刷毛のひと掃きで
 消し去られ
 色の区別なく入り混じっては
 色も形も失せるエントロピー最大の法則
 そのことに
 ただ抗い得る命とは何か

 何のために人は人生を描くのか
 吹き払われる命が美しくあるためには
 息をこらして注意深く生きられねばならないと
 僕の身体が
 深くからこみあげる呼吸の中で言う

 僕の夢の中の砂曼荼羅を
 一吹きで形ない砂の霧に変えたのは
 祈る者の手にあった刷毛ではなくて
 不意に曼荼羅の上の中空に湧き上がった
 ひと振りの風

 何のために絵は
 宇宙と人の五体の命を表象する瞬時の像は
 何のために描かれるのか

 善き生を生きるとは
 自分らしく毎秒を生き
 生きたいように生きることのみが果たし得る砂絵
 風にさらわれてなお
 虚空に形なす
 空即是色の
 風の曼荼羅

 夢を僕は意識して閉じ
 湯舟のなかで立ち上がって小窓を開けた
 小窓から氷のような風が吹き込んで
 湯で温められた胸と腹とを
 ぴしりと打った
 

 たとえ
 それが砂一粒のごとき一生であったとしても