横綱公園の奥には「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」があります。これは震災から50周年となる昭和48年9月に建立されたものです。

以前も書きましたが震災後の混乱の中で「朝鮮人と社会主義運動家が町を襲う」「朝鮮人が井戸に毒を入れる」などのデマが横浜から流布(このデマ情報伝播スピードが、今のネットのように速かった)し、多くの朝鮮人と社会主義運動家が、各地の自警団や警官らによって虐殺されました。

なぜ朝鮮人や社会主運動家が虐殺されたのかは、吉村昭さんの「関東大震災」を読むのが一番です。文春文庫です。読んでみてください。嫌なら結構ですw

朝鮮人虐殺事件は、僕が住む鎌ヶ谷市付近でも起りました。近くの馬込霊園内に建つ「関東大震災犠牲同胞慰霊碑」は、関東大震災の混乱の中で自警団に殺害された多数の朝鮮人(当時は日本国民)を追悼するために建立された石碑です。

社会主義運動家の虐殺事件では、甘粕大尉らによる大杉栄、伊藤野枝、甥の橘宗一少年の監禁虐殺事件、さらに社会主義者の川合義虎、平沢計七ら10名が、以前から労働争議で敵対関係にあった亀戸警察署に捕らえられ、同月4日~5日に習志野騎兵第13連隊によって刺殺された亀戸事件があります。

しかし、現在でも何か事があると必ず攻撃対象とされるのが「在日外国人と左翼」です。

歴史に善悪なんて存在しません。そこにあるのはお互いの利害だけです。何かあってもすべてお互い様です。それに気づけばくだらない争いごとを繰り広げる必要がないのがわかるでしょう。


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関東大震災後、海外から多くの救援物資や義援金が寄贈されました。中華民国(当時)からも多くの慰問品が寄贈されましたが、その中には鎮魂のための「幽冥鐘」があります。当時、中華民国仏教界は弔慰の大行事を行ったのですが、同時に「幽冥鐘」を鋳造して寄贈してくれたのです。

「幽冥鐘」には、鐘の音の功徳によって永く幽都の苦を免れるように「普聞鐘声、冥陽両利」と刻まれています。

現在は両国の横綱町公園内の慰霊堂脇に鐘楼があります。鐘楼は当時の内務省社会局と仏教連合会の協力で建造されたものです。

このお爺ちゃん(人のことは言えないけどw)は鐘楼前の階段を占拠していました。天罰当たるぞ・・・。否、当たらないな。天罰ってのは「心のない人間」には当たらないものだよ。


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本日9月1日は防災の日。大正12年9月1日に発生した関東大震災にちなんで「防災の日」として制定されました。明日は奇しくも関東大震災発生の9月1日と同じ土曜日です。さて…どうしましょう?

関東大震災発生の瞬間を、作家の吉村昭さん、防災情報機構会長の伊藤和明さん、復興記念館で購入した小冊子それぞれの描写が面白いので以下に抜粋させていただきました。

特に意味はありません。多くの方々に以下の書を読んでいただきたい気持ちはありますけどねw 

①吉村昭「関東大震災」文春文庫より

大正十二年九月一日、関東地方では低気圧が北陸地方から本州を通過して金華山沖に向かい、秩父地方でも副低気圧が発生していた、風向は南または南東で、場所によっては時折風をまじえた驟雨が見舞っていたが、それも午前十時ごろにはおさまった。

湿気が多く、空は雲におおわれ蒸し暑かった。その日、秋のさきがけとなる二科会の招待展覧会が上野美術館でひらかれていた。街にはカンカン帽をかぶった男が歩き、人力車が往き交っていた。正午近くなったので、各家々では竈や七輪に火をおこして昼食の支度をはじめ、町の飲食店にも客の出入りが目につくようになっていた。

午前十一時五十八分四十四秒、東京市内に設置されていた中央気象台と本郷の東大地震教室の地震計の針が、突然生き物のように動き始めた。それは、比較的ゆるやかなもので、係員は椅子に座ったまま記録紙の上に線をえがく針の動きを見つめていた。

しかし、緩慢だったのは五秒ほどで、針はにわかに急激な動きをしめすようになり、係員も思わず顔色をかえて椅子から立ち上がった。建物がはね上がるように揺れ、頭上では瓦の落下する音が起こりはじめた。係員たちは、強烈な地震の発生を知った。そして針のえがく線の状態から地震が最強部に達したと推定したが、その推測はうらぎられ本格的な烈震はその後にやってきた。

振動は、押し寄せる津波のように果てしなく盛りあがり、地震計の針が動き出してから十五、六秒後には想像を絶した激烈なまでにたかまった。

②伊藤和明「日本の地震災害」岩波新書より

その日は、強い南風が吹きよせる蒸し暑い日であった。

一九二三(大正一二)年九月一日土曜日、二学期の始業式を終えた小学生たちも、おおかたは帰宅し、家庭では昼食の準備にとりかかっていた。

午前一一時五八分三二秒、相模湾の底でとつぜん岩盤の破壊が始まった。大地震が発生したのである。一二秒後の一一時五八分四四秒、東京の中央気象台(現・気象庁)と東京帝国大学地震学教室に設置されていた地震計の針が、この地震を記録しはじめた。数秒後、針の動きは急激となり、いちだんと激しさを増す振動によって、ついに地震計の針は振りきれ飛び散ってしまった。

四〇秒ほど続いた激しい揺れが、いったん治まったかと思ったのもつかのま、第二、第三の揺れが襲ってきた。それぞれ一二時一分、一二時三分ごろだったされる。

③公益財団法人 東京都慰霊協会「関東大震災」小冊子より

大正十二年九月一日午前十一時五十八分に突如として起った天地鳴動の一瞬。続いて起った出来事こそ、世界史にも類例の少ない、戦慄と恐怖、悲歎と絶望の大惨事でありました。

前日は九月一日の二百十日を控え、ひどい烈風と豪雨の一夜でしたが、翌九月一日は朝から拭ったような快晴で、紺碧の空には何んとなく白雲の往来も早く、きびしい真夏が再び戻ってきたような日でした。

家々では昼食の用意をしており、時計の針は正午に近づこうと秒を刻んでいたその時、ゴウッという無気味な音がトテツもない幅と厚みを持って大地がゆるがしてきたのでした。
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両国の旧安田庭園。

沿革は以下の通り。

庭園内の池は徳川綱吉治世の元禄4年(1701)に。のちに常陸笠間藩五万石の藩主となる本庄因幡守宗資(ほんじょういなばのかみむねすけ)が下屋敷として拝領。庭園も宗資が築造したと言われている。

中央に「心」の字をかたどり、墨田川の水を引き入れた池を配し、潮の干満によって変化する景観を楽しむ「潮入り池泉廻遊式庭園」である。

明治になって旧備前藩主池田章政(いけだあきまさ)の邸となったが、明治24年(1891)に安田財閥の創始者である安田善次郎の所有となった。善次郎の死後、家屋および庭園は大正11年(1922)に東京氏に寄付された。

大正12年(1923)9月1日の関東大震災によって壊滅的な被害を受けたが、残った地割石組みを基盤にして庭園の復元工事が行われた。

昭和2年(1927)に東京都から墨田区に移管されたことを機会に全面的な改修工事が行われて、昭和46年(1971)に名園と言われた当時の姿が復元された。

平成8年(1996)には明治時代の代表的な庭園として東京都の「名勝」に指定された。その後、施設の老朽化が著しくなったために区が平成17年(2005)に「旧安田庭園整備保存管理計画」を策定した。