来年の大河ドラマは幕末の会津藩をめぐる物語のようだ。気分がいいから保科正之について現代書館版の「シリーズ藩物語ー会津藩」野口信一さん著(ISBN4-7684-7102-1)を見て書いちゃった。

初代会津藩主 保科正之は、慶長16年(1611)5月7日に江戸神田白銀町(しろがねまち)で生まれた。父親は徳川2代目の将軍 徳川秀忠。しかし正之の誕生は極秘とされた。秀忠の正室お江与(おえよ、または江=ごう)の耳に入れば正之の母親 志津(静)とともに殺されてしまう可能性があったからだ。お江与は二度目の懐妊で秀忠を産んだ。一度目はお江与に知られるのを恐れて水に流した(中絶)していた。正之の懐妊も同じ理由で中絶しようとしたが、お志津の弟 神尾政景が「将軍の子を二度も水に流すのは天罰必定」と反対したからだ。

志津は元北条家の家臣神尾伊予栄可(しげます)の娘で、縁があって江戸城に奉公していた女性だ。

一方、お江与は、織田信長の妹、お市の三女で、淀君の妹だ。秀忠よりも8歳(異説はある)年上で、政略結婚によってこれまでに2回結婚経験があり、3人の子供を産んだ。乱世を生き抜いてきた女性であり、気性が激しかったと思われている。

徳川秀忠は謹厳実直と言われ側室(妾)を置かなかった。お江与の監視が厳しかったとも言われる。秀忠とお江与の間には長男の家光、次男忠長、三男長丸が生まれた。

正之が生まれた翌日には密かに江戸町奉行の米津勘兵衛を通して、当時の老中、土井利勝に知らされる。利勝は湯殿(風呂)で秀忠に報告した。秀忠は「覚えがある」と認め、名を幸松(こうまつ)とし、懇ろに養育せよと伝言した。もちろん、公に発表される事はなかった。志津と幸松は江戸市中でひっそりと暮らしたが、幸松の存在を知ったお江余の刺客が現れるかもしれないと幸松が3歳のときに見性院(けんしょういん)の保護を受けることになった。見性院は武田信玄の娘で、武田から家康の家臣となった穴山梅雪の未亡人。見性院は家康の庇護を受けて江戸城の田安門内に屋敷を与えられていた。見性院であれば力もあるし安全な場所だった。

あるとき、幸松の存在を嗅ぎつけたお江余は使者を見性院に向わせた。使者に対した見性院は「確かに秀忠の子供を預かっているが、この子は将来、自分の子として領地を与える考えだ」と答えた。

幸松が7歳になると女手ひとつでは将来が心配なので、かつての武田の家臣、信州高遠(2万5千石)の藩主、保科正光(ほしなまさみつ)に養育を頼んだ。母子共に高遠で暮らす事になった。秀忠は養育費として高遠藩に5千石を加増し3万石とした。初めは預かるだけで養子ではなかったが、正光に子がなかったために、一緒に暮らすうちに情愛が湧いて、正光は家督を譲るために幸松を養子とした。幕府もこれを認めた。

正光が寛永8年(1631)に71歳で死去すると、幸松は高遠藩を相続し、正之と名乗る事になった。このとき正之は21歳。その翌年には実父の秀忠も死ぬが、正式な親子の名乗りはなかった(みなもと太郎の漫画「風雲児たち」では、家光のとりなしで親子の対面シーンがある)。寛永13年(1636)突然、正之は異母兄の家光によって17万石を加増され、出羽国最上20万石に移封された。

正之は26歳から33歳までの7年を最上藩主として過ごした。寛永14年(1637)正之が参勤交代で江戸滞在の時、九州の島原で天草四郎がキリシタン農民を率いて大規模な一揆を起こした。幕府はこれをあまく見てすぐに鎮圧できるとたかをくくっていた。鎮圧軍を送り込んだが一揆勢に敗れてしまった。

幕府は慌てて佐賀の鍋島、熊本の細川らの大群を派遣し、総大将には将軍の名代を派遣する事に決めた。その将軍名代に正之が選ばれた。ところが正之は何故か長崎に向かわずに国許に戻ってしまった。江戸や国許の家臣たちは天草の乱に出動するものと準備をしていたが、家光の命は「家臣も山形に帰城せよ」だった。家臣たちは正之が家光に嫌われているのではないかと思った。家光は実の弟である忠長が自害に追い込まれていた事を知っていたからだった。

不審に思う家臣たちに正之は説明した。祖父の家康は「西国に異変ある場合には東国に注意せよ」と言った。この時代には徳川幕府が安定していなかった。隙あれば幕府転覆を目論む大名もいたからだ。東国の大名たちが倒幕の動きを食い止めるために帰国したのだと正之は家臣たちを納得させた。

「西国に異変ある場合には東国に注意せよ」とは、まさに関ヶ原がよい前例だ。ただし、関ヶ原の場合には家康は西国を陽動するものだった。時代は違うが幕末にも西郷隆盛は京都伏見の戦いの戦端を開くために赤報隊を使って巧みに幕府軍を陽動した例もある。考えたら天武天皇による「壬申の乱」も同じような戦いだったね。

この年、正之は家光に”保科家代々の家宝を保科本家に譲り渡せ”と命じられて、当時の保科本家である保科弾正忠正貞に保科家代々の家宝を譲り渡した。これで保科正之は晴れて徳川の一員として認められたのだった。

その後、寛永20年(1643)に正之は山形20万石から3万石を加増され、23万石会津藩主に任命されたのだった。

初代会津藩主の誕生である。
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少し前の「朝まで生テレビ」で憲法改正について騒いでいたのを思い出した。手元に大月書店「日本近代化の虚像と実像」があったので、4巻をペラペラと捲っていると「日本国憲法は押しつけられたのか」の項で以下のような内容があった。

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日本国憲法はGHQ案の翻訳であると言われるが、GHQから政府案に至る過程や政府案を帝国議会で審議する過程においてもかなりの部分が修正されているそうだ。

根本的な修正は一院制を二院制に、土地国有化の削除など、かなりの部分にのぼっている。

たとえば「すべて国民は健康にして文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」(日本国憲法第二五条一項)は、GHQ案になかった。社会党が修正案として提出して、議会で挿入されたものだ。しかし、これは僕の家族には権利を与えられていない(冗談だよ)

「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う。義務教育はこれを無償とする」(第二六条二項)は、GHQ案では「すべての国民に無償な義務教育がなされる」とあるだけで義務教育の年限を定められていなかった。これに対して政府は初等教育(小学校のみ)のみ無償保障としたが、青年学校(中等学校”義務教育ではない有償教育”へいけない小学校を卒業した子弟がいく無償・義務教育)の教員と父母が修正に立ち上がり、議会で「その保護する子女に普通教育」と修正された。

以上はGHQ案を前進させた項目だが・・・。

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官僚が中心になってGHQ案より後退させた項目がある。

そのひとつが”外国人の人権保護”だ。GHQ案では「外国人は、砲の平等な保護を受ける」との一か条があったのだが、政府は何度かの交渉を重ねて外国人の人権保護に関するあらゆる規定を取り除いてしまった。

さらに、地方自治に関してもGHQ案は根本から修正され、結果的に自治は後退してしまった。

GHQ案では「都、市および町の住民は、自らの財産、事務および行政を処理する権利並びに国会の制定する法律の範囲内において、自らの基本法を定める権利を奪われることはない」とあり、道府県とはべつに都市町の自治を定めていた。これは都市町に法律の範囲内でそれぞれの自治体が個別に基本法をさだめるものだった。

これに対して、政府案は「地方公共団体」というすべての自治体をふくむ包括概念を導入して、その「組織及運用に関する規定」を地方自治法でさだめるとの新条項を挿入した。これによって、都道府県市町村はかなり画一化され、その自治の内容はすべて地方自治法で定められる事になった。

こうみると、日本国憲法はGHQ案の翻訳だと即断できない・・・そうだ。

朝まで生テレビの自民党の議員(誰だか忘れてしまった)は、「憲法はGHQによる押しつけだった」と主張し、九条含む憲法改正を訴えていたが、途中で自分が勉強不足なのが発覚するや憲法改正には反対だと意見転換をしてしまった。