明治維新は薩長を中心とする西南雄藩が武力で徳川幕府を倒した結果である・・・というのが国民共通の歴史認識だと思うのですが、これを称して「西南雄藩討幕派史観」と言うのだそうです。

西南雄藩討幕派史観が定着してしまった要因は、わが国の歴史教育にあるといいます。それは国家指導によるものです。

現代の高校の日本史教科書は大体が同じ内容(教科書検定制度があるから)であるそうです(僕は勉強しなかったので全然記憶にありませんがw)。それは下記のようなものだそうです。

幕府は天保改革に失敗して権力の衰退につながった。同時期に西日本諸藩から優れた藩が台頭し、幕末の政局に強い発言力を持つに至った。これら諸藩は財政再建と軍政改革に成功し、幕末の政局に指導的役割を担う基礎が作られた・・・というものです。

「孝明天皇と一会桑(いっかいそう)」幕末・維新の新視点 家近良樹さん著 文春新書 税別700円 ISBN4-16-660221-7 より
黒澤明「天国と地獄」からラストシーン。今日も見たのでw

元気そうですね。今は何をしてらっしゃるんです。

◉相変わらず靴を作ってるよ。小さな会社だがそれを私に任せてくれるって人がいてね。私は今、それをナショナルシューズに負けない会社にするつもりで頑張っている。

どうしてそんな顔で私を見るんです?私はこれから殺される。でもそれを恐れてなんかいませんよ。そんな憐れむような目つきで私を見るのはやめてください。それが嫌だから私は協会士も断ったんです悔い改めたり、神様にすがったり、どうして私までそんなつまらないことをしなければならないんです?

私はね親切な気持ちで嘘を言われるより、残酷な気持ちで本当のことを言ってもらった方がいい。

ところで私が死刑になって嬉しいでしょ?嬉しくないんですか?

◉どうしてそんな事を言うんだ?君はなぜ君と私を憎み合う両極端として考えるんだ?

なぜだかわかりませんね。私には自己分析の趣味なんかありませんからね。

ただ、私のアパートの部屋は冬は寒くて寝られない夏は暑くて寝られない。その3畳の部屋から見上げると、あなたの家は天国みたいに見えましたよ。毎日毎日見上げているうちに、だんだんあなたが憎くなってきた。終いにはその憎悪が生きがいみたいになってきたんですよ。それにね、幸福な人間を不幸にするっていうことは、不幸な人間にとってなかなか面白いことなんですよ。

◉君はそんなに不幸だったのかね?

身の上話をしろってんですか?まっぴらですね。私は自分がどんなに不幸せだったかなんて話して、今更同情なんかしてもらいたくありませんよ。幸い、お袋も去年死んで胸くそ悪いメソメソした幕切れにならなくて済んで、本当によかったと思ってるんですよ。

◉それで君は一体君は何のために私を呼んだんだ?

私が泣き喚いてビクビクしたり、惨めったらしく死んだなんてあなたに想像されるのはたまりませんからね。

この手が震えているには怯えているからだと思うでしょう?ところが全然関係ないんだな。長い間、独房に入れられてるとこうなるんです。単なる生理現象ですよ。独房から出されただけで震えてくるんです。本当ですよ。

私は死刑なんか怖くも何ともない。地獄へ行くのも平気だ。生まれた時から私は地獄みたいな生活に慣れてるんです。天国へ行けなんて言われたそれこそ本当に震えあがるかもしれませんがね。

くそ~ぉおおおおおお~っ!


$..............消雲堂の安全対策


3代将軍の家光は鷹狩りのために数名の家臣を連れて江戸郊外の目黒に出かけた。途中で喉が渇いた家光は休息をとるために近くの粗末な寺を訪ねた。家光は自分の身分を偽って「自分たちは将軍家の家臣だが少し休ませてほしい」と言って、寺の中に入った。

家光が寺の中を見回すと貧乏寺には似つかわしくない掛け軸がかかっている。家光が寺の住職に掛け軸の入手先を聞くと「ここは城下から遠く、さしたる檀家もございませぬが、保科正之肥後守様のお母上様から祈祷などを頼まれた際に頂戴した物。将軍家の家臣様の御前で恐れ多い事ですが、保科様は今の将軍の弟様であられますのに、わずかな禄で貧しい暮らしをしていらっしゃいます。身分の高い方々の兄弟愛はなんと薄情なものでしょう」と言った。

家光は驚いた。家光は自分に弟がいることなど知らなかったからだ。家光は平静を装って顔色を変えることなく住職に礼を言って寺を出た。

間もなく家光のあとを追ってきた他の家臣たちが寺を訪れ「上様はこちらにおいでか?」と聞いた。住職は「いえ、将軍家の家臣と申される方々が、今しばらく迄、こちらにおいででございましたが・・・」と答えた。家臣たちは顔を見合わせて「それこそ上様に間違いない」と言うや寺を出て家光のあとを追った。

住職は驚いた。先ほどまで自分が将軍を非難していたのが、その将軍だったからだ。

幸いにも住職には咎めはなく、保科正之には最上20万石に移封が決まったのだった。

「シリーズ藩物語 会津藩」野口信一さん著(現代書館)の囲み記事を参照しております。


保科正之は最上から会津23万石に加増移封され、15条からなる家訓の第1条に「徳川家を支え忠勤を励むこと」を定め、会津藩歴代9代225年にわたってそれを忠実に守った。また4代将軍家綱の後見役として国の政治も任され、武断政治(武力を背景にして行われる専制的な政治のこと。主に江戸幕府初期の、徳川家康から徳川家光までが行った政治姿勢のことを指す)から文治政治(儀礼,法制,教化などの整備充実を通じて社会秩序の安定を維持しようとする政治。武力,権謀による強圧を主軸とする武断政治と対蹠的に用いられる)への移行を成し遂げた。

正之は藩内で殉死の禁止、社倉、年金制度の創設を行い、幕政では末期養子の禁の緩和、大名証人制度の廃止、玉川上水の開削、明暦の大火などからの復興を行った。

3代藩主松平正容(まさかた)からは幕府から葵の紋、松平の姓を賜った。以降は家門大名(親藩の中で、特に徳川将軍家の一族及び徳川家康の兄弟の家系の大名家、旗本家を指していう。御家門は家康の元の姓である松平姓を名乗ることを許された)として幕府を支えた。

5代藩主の松平容頌(まつだいら かたのぶ)の時代には藩校「日新館(にっしんかん)」を造営、文武両道、藩士皆教育を実施した。有名な「ならぬことはならぬ」に代表される会津藩の精神が形成された。

反面、偏った保守的思想は融通の利かない性格も形成され、武備や新しい思想、文物の流入に問題を生じることになった。

以上、「シリーズ藩物語 会津藩」野口信一 著 (現代書館 1600円+税)より。