私達が1年の時の4年が、雉達の1期になります。もう1つ上にもいるのですが、途中で辞めた方以外は皆さん勉強が好きで5年目の学生生活を送っておられました。
私達が入学した年に、関東学連に加盟申請を出したことは、前に書きました。加盟には「監督」や「コーチ」が必要で、八幡山の鳥神大学OBで甲子園ボウルにも出場経験があるT氏が監督に就任してくれました。コーチには、試合で大怪我をして選手を引退していたAさんのほか、T監督と一緒に甲子園ボウルに出場したタックル出身のYさん、同じくガード出身のNさんに就任していただきました。
当然プレイコールは鳥神のものが流用され、春のゴールデンウイーク前には100余りのプレイが記されたプレイブックが全員に配布されました。
T監督の初采配は、春の4大戦(なんとかの葉っぱ、橙光線、将軍、雉達)のなんとかの葉っぱ戦でした。梅雨入り前だというのに雨がシトシト降る5月の日曜日、吉祥寺のなんとかの葉っぱ大学グランドでした。泥寧としか形容しようがないグランド、ラインもあっという間に消えてしまうコンディションでした。なんとかの葉っぱには「パンダ」とあだ名される化け物のようなラインと他の学校なら絶対にラインになるようなKさんというバックスがいました。この2人を中心にゴリゴリとグランドアタックで攻める葉っぱ、雉達も4年を中心に必死に攻めますが、なかなか得点できません。
葉っぱに2タッチダウンを先行された後の雉達の攻撃、T監督が控えの選手を呼び、次のプレイを指示しました。

「いいか学生っ、次のプレイでフレッシュ取ったらな・・・・」

確か第3ダウン、ショートだったと思います。まだ体操着姿で雨の中試合を見学していた私でしたが、心の中で監督に思わずツッコミを入れてました。(「学生」って、名前くらい覚えろよ)と。もちろん「フレッシュ」なんて今は死語です(笑)結局そのプレイはぬかるみに足を取られたプルアウトガードがランナーとぶつかり、ノーゲイン。試合も0-22で敗れました。

後日、夏の合同練習で八幡山の鳥神グランドに行った時に、鳥神のN御大が練習中に選手を「学生っ」と呼んでいるのを聞き、我がT監督はN御大を真似てコーチングしていたことを知ったのでした。
私達の時代は、駒沢球技場がアメフトの聖地でした。有料の観客席がある駒沢第2グランドでのリーグ戦は、年に1度できれば大喜びでした。
ろくにリハビリもしないまま、練習を再開していた私ですが、高校時代に新聞部とブラスバンドの経験しかなくても、腹筋は見事に分かれ、足も相当速くなっていました。先にご紹介した体育会が服を着ていた先輩達の最終戦は、その聖地、駒沢補助グランドでした。
その年から採用していた攻撃体型は「ダブルウィング」というショットガンでした。QBは4年のOさん。私はワイドレシーバーで、例のIさんの控えでした。加入2年目で、緑の怪物にも敗北を喫しており、対戦相手の橙光線も雉達同様全敗で迎えた試合でした。
試合前のパス練習では、私は絶好調で、ロングパスをことごとくキャッチしていました。
試合が始まりました。雉達の最初のプレイは、右に出た2人のレシーバーのロングのクロスと決まっていました。コーチとしてベンチに入っていたAさんから、最初のプレイに出ろ、という指示を期待したのですが、やはり先発はIさんでした。ショットガンからボールがスナップされ、予定通り2人のレシーバーがロングでクロス、Iさんがフリーになりました。
パスが投げられましたが、Iさんにとってはリードがききすぎでパス失敗でした。試合は橙光線のエースRBがオープンを抜けると止まらない、という展開が何度かあり、0-20で橙光線が有利に試合を進めていました。
DBとしてディフェンスには出ずっぱりだった私ですが、スタミナは一番ある頃でしたので、オフェンスに出たくて仕方ありません。試合が終盤に差し掛かった頃、私はたまらずAさんに直訴しました。ちょうど雉達が攻撃で自陣から橙光線陣に入ったところでした。この試合が引退試合となるQBのOさんは、やはり引退となるIさんをターゲットに何度もパスを試みますが、Iさんは絶不調で一度も成功していませんでした。

「Iさんの代わりに僕を入れてください」そう直訴した私にAさんは言いました。

「今日が最後なんだ。いいから(Iに)やらせとけ

コーチの言葉は絶対です。逆らえるはずもありません。アメフトをやっていて、一番くやしい瞬間でした。
Iさんは次のプレイでOさんの投じたロングパスを橙光線のDBと競り合いながら、ゴール前5yd地点でこの日初めてキャッチしました。ただ次のシリーズでタッチダウンを上げることは叶わず、Iさん達のリーグ戦は不名誉な全敗で幕を閉じたのでした。

その日以降、私はオフェンスチームに入ることはありませんでした。
試合の思い出はたくさんあるのですが、印象的なのはやはりT武I勢崎線のM原団地にあるグランドでのものが多いですね。その時は陸上グランドの奥のラグビーグランドが舞台でした。対戦相手は緑の怪物。リーグ戦で雉達はすでに1勝していました。緑の怪物はその時点で未勝利ながら、上位チームと競り合う試合をしていました。
ラグビーポストがあるということで、タッチダウンの後のPATやフィールドゴールもOKというコンディションでした。緑の怪物はすでに専任のキッカーを育てており、自陣深く攻め込まれれば、失点を覚悟しなければならない状況でした。対する雉達は、練習できるゴールポストがないグランドでしたので、得点方法はタッチダウンか守備側のセフティしか期待できないものでした。もっともコンスタントにPATのキックを成功させるチームは不死鳥や斧、一角獣くらいのもので、まだまだアメフト自体が発展途上でした。そして、それがこの試合を決めてしまうのでした。
緑の怪物との対戦はいつも僅差の試合になるのですが、この日もそうでした。緑の怪物がうまいボールコントロールでタッチダウンを先行しますが、PATのキックが決まりません。雉達もすかさず反撃してタッチダウンを決めるものの、こちらもPATが決まらず前半を6-6で終了しました。

後半に入って緑の怪物が追加点、またもPATが決まらず6-12。その後両チームともバントを蹴り合って迎えた第3Q終盤、雉達がじりじりと緑の怪物ゴール前に進み、ついにタッチダウンを上げました。PATも決まり、14-12と初めてリードします。
この試合は緑の怪物が得点すると雉達も得点を返すという展開になっていました。こうなってくると、時間との戦いも結果を左右することになります。第4Qに入って、再び緑の怪物が攻撃の歯車が合い出し、雉達は3度目のゴールを割られてしまいました。タッチダウンの時点で点差は4点。PATで2点が取れれば、雉達がタッチダウンをあげてもPATを止めることで最悪でも引き分けに持ち込めます。ところが緑の怪物はPATでこれまで2度失敗しているキックを選択しました。このキックは成功したのですが、点差は5点止まり、雉達がタッチダウンすれば逆転されてしまいます。

雉達の反撃が始まりました。審判がラスト4分を告げ、気持ちがあせる中、前日の練習で肉離れが悪化し、試合に出られないキャプテンのTに代わって、急遽ガードからタイトエンドにコンバートされた2年生のNが緑の怪物エンドゾーンでボールを拝み取りした時には、残り時間は1分強になっていました。20-19。雉達1点のリードです。
アメフトの計時は、片方のチームが連続して攻撃をしている場合には、パスの失敗かボールがフィールドの外に出るかしないと止まらないルールになっています。また、4回の攻撃で10yds以上進んだ時には時計は止まりますが、外に出ていない限り審判のプレイ開始の笛で時計が動き出します。
緑の怪物の攻撃が進み出しました。ただ、お互いにタイムアウトを使い切っていたため、少しずつですが、確実に残り時間が減っていきます。緑の怪物もなんとか時間を使わずに前進したいのですが、すべて審判の笛で時計が動き出すプレイでしか前進できません。雉達のディフェンスキャプテンSは、緑の怪物が第1ダウンを更新する度に時間を管理している審判に残り時間を確認しています。
長い長い残り1分は、緑の怪物が雉達陣20ydライン付近まで攻め込んだところで終わりました。

「終わりですよね?」

Sが審判に問い掛け、主審の試合終了の笛で雉達のリーグ戦2勝目が確定したのでした。

卒業旅行というのは、今でこそみな海外に出かけますが、私達の頃には海外組はごく一部のブルジョア階級でした。私達の同期はマネージャーが3人、プレイヤーが6人と比較的大勢を卒業までキープしていました。「卒業旅行に行こうや」と言い出したのはキッカーをやっていた例のSでした。既に結婚が決まっていて、卒業式後、すぐに嫁に行ったマネージャーM、留年したセンターのK、流通関係に就職したため卒業式前に入社して、すでに仕事をしていたタックルのAの3人を除く男4人、女2人の卒業旅行が決行されたのは、3月末の土日でした。


私とSが車を出して、目指すは伊豆の天城高原でした。あいにくの空模様の中、湘南の海沿いの国道をひたすら西へ。時間の制約もなく、のんびりした旅行でした。熱海の先から伊豆スカイラインに入り、いのしし村などを見ながら旅の宿へ。待ってましたの飲み会はひたすら思い出話に花が咲き、いつ果てることもなく続いて、気がついたら6人が酒を飲みながら雑魚寝の状態で翌朝を迎えました。


今だったら確実にアルコール検査でひっかかり、酒気帯び運転で摘発されるような状態で私とSはハンドルを握り、水分を多めに摂取するので、トイレ休憩が1時間に1度はあるという、帰りものんびりとした道行きでした。


湯河原での休憩時のことです。食堂には今は見ることもないジュークボックスが置いてありました。まず、Sがそれに気づき、100円を投入、いくつか曲をセレクトして帰ってきました。続いて私がジュークボックスに向かい、曲を見ていると、私達の世代には嬉しいフォークソングやR&Bの洋楽のドーナツ盤(死語ですねえ)がセットされていました。私も100円を投入、そのときに一番好きだった曲をセレクトし、席に戻ってきました。曲はもちろん標題にある「ささやかなこの人生」です。


花びらが散った後の、桜がとても冷たくされるように

誰にも心の片隅に、見せたくはないものがあるよね

だけど人を愛したら、誰でも心の扉を閉め忘れては

傷つきそして傷つけて、引き返すことのできない人生に気がつく


優しかった恋人たちよ、振り返るのはやめよう

時の流れを背中で感じて、夕焼けに涙すればいい


1番だけでもジンとくる歌詞が店内に流れるとみんな口ずさみながら聞いています。

「いい曲選んだだろ」私は得意そうにみんなに言いました。するとSが「ばか、これは俺が選んだんだよ」と一言。なんのことはない、二人で同じ曲を選んでいたのでした。機械が利口なのかバカなのかわかりませんが、結局2回目の「ささやかなこの人生」はかからずに200円分の曲が終了しました。


今でも時々カラオケでこの曲を歌いますが、だいたい同じくらいの年齢の連中と行くカラオケですので、一人で最後まで歌えたことがありません。それくらい私達の世代にはインパクトのある曲でもありました。


もう何年か前に亡くなったが、関東アメフトでは伝説的なカメラマンでA田さんという方がいた。ご自身でプレイの経験はないのだが、私なんぞが生まれる遥か前からアメフトの写真を撮り続けられていた方だ。私達が現役当時は、彼の写真が御茶ノ水のスポーツ用品店「M津濃」で買うことができた。
なかなか毒舌な方で、でもその言葉にはアメフトに対する深い愛情が含まれていた。不死鳥大学や斧大学、緑機械大学、金熊大学(今はニックネーム変わったみたい)などの関東メジャーばかりでなく、さつきリーグや首都リーグなどへも気楽に足を運び、M原団地でもよくお見かけしたものだ。
私が学連執行部にいたせいでもないのだろうが、審判となってからもグランドで会うと、厳しく判定に対してコメントをいただいたりした。
前にも書いたと思うが我が雉達大学と元首相出身大学(誰がZELKOVAの意味を教えてください 笑)、橙光線大学の4校は旧制の私立高校ということで、リーグ戦とは別に4大戦という競技会を行っている。昔は総当たりの3試合、最近はトーナメントで2試合が春のシーズンに実施されている。4校が持ち回りの開催で、在学して競技会に参加すれば、大学4年間で、各校が回れるという仕組みだ。
アメフトも同じように各校持ち回りで開催し、決勝の日には当事者校が打ち上げパーティーを開催、現役、OB、OGがドンチャン騒ぎをする。
ある雉達大学が当事者校だった年に、決勝日にA田さんが来てくれた。初夏を思わせるような日で、審判をやっていても水分の補給が欠かせない天候だった。A田さんは3位決定戦を撮影した後に、おもむろに私に近づいてきた。「おい、お前んとこの4年の背番号教えとけ、次の試合撮っといてやるから」
私が映されるわけでもないのに、なぜか嬉しくなって背番号を教えた。試合は雉達の勝利で終わり、監督の胴上げがあって、恒例のBBQに突入した。
もちろんA田さんにも特別ゲストとして参加してもらい、おおいに盛り上がった一日だった。
後日、A田さんから額縁付きで中央に胴上げされるH監督、その回りに活躍した4年の写真を配した組み写真が送られてきた。その年、雉達は2年連続で3部リーグを制し、入れ替え戦では甲州の赤戦士をダブルスコアで下して、念願の2部昇格を果たしたのだった。