先日、オンラインでですが発達性ディスレクシアの学会に参加しました。
その会の中身について、もちろん学びはめちゃくちゃ大きかったのですが、それ以上に、質疑の中で場外乱闘的に始まった、
「様々な翻訳ツールが開発され、進化し続けている昨今、英語の必要性はどこまであるのか」
という根本的なところに立ち戻っての議論は、これまで意識下に刷り込まれ、盲目的に信じていた私の価値観を壊してくれました。
某国立大学工学部の教授は、
軽度も含めると1割から2割程度いるとされる、先天的な問題で、英語の語彙の習得に困難を抱える小中学生に対し、どのように教えればより負担が軽減されるのか
という趣旨の学会でする質問ではないとしながらも、
「英語と同様に、算数、数学もできない小中学生はいる。なにも英語だけに限った話ではない。いや、小中学生どころか、うちの工学部の学生の中にも、まともに数学や物理がわかっていないような学生が増えてきている。理科や数学がこれほどまでに育っていないことの方がはるかに問題だろう。英語なんて、今後様々なツールが生まれてきて、必要性はどんどん減っていくことは間違いない。なのに・・・」
つまり、英語ができないなら、理科や数学をがんばればいい。なぜこんなにも英語なんかにこだわるんですか?という質問。
これに対して学会主催者の返答がすごかった。
「私もやらなくていいと思います。先天的に語彙を獲得することに困難を抱える小中学生に、漢字に加えて、英単語を2000も3000も覚えさせるなんて虐待と呼んでもいいとすら私は思う。はっきり言って入試のためです、英語にこだわるのは。入試があるから、その先の機会を手に入れさせてあげたいから、ただそれだけです。入試が終わったら、彼らは二度と英語なんてやらないでしょうし、使おうともしないでしょう。」
加えて、もし私が日本の教育制度について提言できるのなら、入試において、たとえば英語を数学に換えられるとか、そういうようにしたい、というようなことをおっしゃいました。
義務教育の中で英語をやらないというのはさすがに暴論だとは思う。でも、入試のみ英語を数学に換えられるというのならアリじゃないだろうか。
英語ができなければ通知表はその分下がるけれど、当日点では英語を使わなくていいとか。もちろん同じように、数学を英語に換えるもアリにして。
かつては、大学で「英語ができなければ最新の文献が読めない。」「ネイティブの教授の授業が受けられない。」だから必要だとされてきた(のだと思う)。
でも、今はどうだろうか。そして、今後はどうだろうか。
ゼロベースで考えてもいいことなんだろうな、と目から鱗の機会になりました。
ただ現状は、学会主催者の言葉にもあるように、英語ができないと先の機会が絞られてしまう制度になっていることは疑いようがない。
だとするなら自分たちにできることはただ一つ。
なんとかして英語の障壁を低くしてあげたい。
その思いを抱いた全国の研究者たちが、それぞれの知見を共有し、新たな指導法やツールを開発し発表する姿に心が震えました。














