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私的 3.11 考

9月11日、地震からちょうど半年の日に札幌を出発
今回は、仙台港が使えるので、苫小牧~仙台航路を利用

仙台上陸後、数日間を石巻で過ごした
ここは津波被害が中心だが、被災地域をどうしていくのか、住民をどこに移住させるのか、防災対策をどうするのか・・・
市民に対して、今後の方向性がまったく示されておらず、ただただ不安の中で、今眼前でできる範囲のことにしか目を向けられないもやもやした空気を強く感じた

津波によって積み上げられた家財や車などは、あらかた集積所へ運ばれており、広場?原野?という光景が海に向かって広がっていた
南三陸の志津川にも寄ったが、居住地の痕跡を雑草が覆い隠していて、こんな空き地がもう何年も前からあったかのような錯覚を覚えた

「雑草は元気だよなぁ」

疲れ果てた状態が続く、現地の仮設住宅に入居している人の声が、重く響いた


9月16日から南相馬に入った

4月に避難所にて知り合った人物と会い、かの人の手伝いを中心に動くことになった
避難所へも訪れたが「……」
お呼びではなかったようだ

耳にしたくない、目にしたくない光景にも何度か接した
こんなに手前勝手な方向を個々人や小集団ごとに向いていて、どうするのだろうか?
そんな中で、支援の網から零れ落ちている人たちの姿もあり、多少の話を聞く以外にできなかった自分に情けなさを感じたり

全国各地、世界各国からの支援が今でも一部に集中し、あるところでは恒常的に物余りで贅沢をし、ある一部の人たちには相変わらず物も気持ちも届かない
そういうところを見つけ出そう、隙間にこぼれる人を見つけよう、そういう動きは、どうも市行政に期待することはできないようにも感じた
ごくごく小さな目の前の利益(権益)を確保することを、被災した人に手を差し伸べることより優先してしまう
自分はもらう、他人にはあげない(情報さえも)
そういう様子を見たとき、ネット上でささやかれていた「震災kojiki」が目の前に現れたような気さえしてしまった
単に私の度量が小さいだけだと思うけれども


要領の悪い人、情報の流れる通路から外れている人、物資の渡る範囲から外れている人
同じように被災して困っていても、誰からも手を差し伸べてもらえない
そんな人たちが少なからず現在もいるということを、改めて認識した

滞在期間中、懐かしい人にも再開できたし、話を聞くこともできた
個人的なつながりの中で、自分にできる範囲のことを小さく動いた、そんな2週間になったように思う

10月1日に札幌に戻ってきた
無力感とともに
南相馬市をはじめ、中通りでも「除染」と称した活動が活発に行なわれつつあるようだ

南相馬市での除染活動の一部を実際に見て、「何をやっているのだろう?」と感じたのが正直なところ

校庭内に高濃度地域を作り出し山積みにして放置(ブルーシートごときでは放置と一緒だろう)
少しマシな場合でも、海岸近くに運んで山積み放置
通学路と思しき歩道にいたっては、水を撒き散らしながらマスクもせずに作業が進む
道路わきに水をまきながら走り去っていく散水車
一般家屋に対する作業は見ることができなかった

南相馬市での家屋での先行調査事例をみると、除染効果はせいぜいの所3~4割
作業によって濃縮されたものの処分は保留
分析するために、法を犯して首都へ運び込んだ例もあったようだが・・・

費用も表土を剥ぐので1800円/㎡
家屋の場合は数百万円~500万円にいたるという
これらは公共の用に供するもの以外、現在ほとんどの場合は個人で負担しなければならない状況とのこと


第三者的に実態を眺めていると、文字によるペテンが行なわれているのかもしれないと感じた

当初「除線」と書いて、放射線量率を下げるために汚染物質を取り除くことの意味をなしていたはず
今は「除染」と書いて、汚染そのものを取り除くようなニュアンスを強く感じさせている

除染と書くから、掃除をした後はピカピカにきれいになるのと同様の印象を与えてしまうのではないか
あたかも殺菌や滅菌と同様の意味合いをもっているかのように

除線と書くと、今は訂正の書き込みやリツイートがすぐに出てくる状態になっているようだ
それは「除染」だ、と
字を知らないのか、と

場当たりな、計画性も網羅性もない除染活動
一生懸命やっています、というポーズにしか見えないし、実際の作業員の2次被曝への心配もしてしまう
除染ねぇ…
お金(財政)と労力の使い道、何か違っているのではないかなと個人的には感じざるを得なかった

見えないものに対する畏れ
日本人は忘れてしまったのだろうか?
4月の10日間ほどの滞在は、決して長くはなかった
それでも、2泊3日程度では見ることのできない、感じることのできないことが多々あったようにも思う
もっとも、それは個人の感受性の問題でもあるので、一概にそうとは言い切れないのは確かではあるけれど

小樽でフェリーをおりて、札幌に向かう
やはりここ北海道は「日常」が「日常」として存在し続けていた
出発直前に体調を崩していたこともあってか、戻ってから一週間くらい寝込んでしまった
現地での緊張状態から解放されたことも原因だったのだろう
それは、被災された方たちが、恒常的に緊張状態を強いられて生活していることの証左、でもあるように感じたのも確かであった

現地で見聞きしたことと、ネットや新聞テレビ等の情報とを照らし合わせながら、今後のことを考えたり
現地滞在中は、新聞やテレビなどの情報に接する機会が非常に少なく、文字通り情報弱者としての環境下に置かれていた

考え得るいくつかのことを文字にしてみたり
でも可能であるならば、現地に長期間滞在して復旧、復興、再生の手伝いができれば・・・
その思いからか、焦燥感や、行かなければ、やらなければ、という一種の強迫観念にも似た感覚に襲われ続けてもいた

次に行くのであれば、半年経過後、と決めていた
3.11から半年の間は、何かと行事やイベントが盛り込まれ、人の目に触れる機会も多かろう、出入りする人の数も多かろう、そんな気持ちもあったから

ただしそれは、じりじりとした自分との我慢比べでもあった
新潟港に着いて、最初に感じたのが、ある種の非日常感
自衛隊の車両が混じり、援助物資を満載したワゴン車が多く、一目でそれとわかる車がいたるところにあった

自分の目的、親戚知人の様子を見に行くこと(お見舞い)が主、であることへの後ろめたさもあったのかもしれない
どこか申し訳ないような気恥ずかしさがあったのは確かだった

磐越道に入ると、被災地へ向かっていることが肌で感じられた
自衛隊車両、被災地救援車両しかいないのではないか、という印象だった

郡山市へ入ると、なんだか、日常>非日常、という空気が流れてたように感じた
地震の揺れによる被害、それがほとんどといった空気
鉄筋コンクリート製の建物のほとんどに、応急判定済みの用紙が貼られていた
ただ、放射能の空間線量は浜通りよりも高いはず
にも関わらず、日常的な雰囲気が漂っていたと感じた

福島市に入り、軽食でも仕入れようかとスーパーの駐車場に入ったところで、携帯電話がけたたましく音をあげた
緊急地震速報
そして震度3の揺れ
緊張感を感じながら、相馬市~南相馬市へと向かう
偶然にも、南相馬市の親戚宅が利用できることになり、宿泊場所の心配をする必要が無くなったのは幸いだった

会津から来た親戚、その同僚氏とともに、7日間ほど行動を共にできた
相馬市に設定された避難所、旧相馬女子高で手伝いをすることができた
避難されていた人たちと直に接することができたのは大きな体験だった
喫煙所で話を聞き、裏方として洗い物をしながら避難者と会話する
他愛の無いことを話せるようにまでなってきた、という状況だったと思う

その避難所が閉鎖され、南相馬市の第二中学校に100名弱が移転
そこでも引き続き手伝いできたことは、後日になって意味を持った

金魚の糞として有識者と南相馬市長との会談にも帯同でき、現地の他の避難所で活躍していたボランティアの方の話も聞けた
個人的には思うところは多々あったが、今の自分にできることは少ない
金も人脈も無い個人ができることは多くは無かった

松川浦から浜街道を可能な限りトレースして、津波被害の様子を目の当たりにし、あの光景は忘れることができないと思う
のろかきの作業も行なったが、被災された家の方がずいぶんと気を遣ってくれて、こちらが恐縮してしまった
ボランティアで入っていた方たちと、農家民宿で夜遅くまで話をできたことも自分の中では大きかった

この4月の滞在で心に残った言葉がいくつかある

 「もうボランティアは結構だから、後は自分たちでなんとかする」
 と言われるまで手伝いをしようと思う
 そして、遠くない日にそうなってくれることが私の願いである

そう話してくれた他県からのボランティアさん

 自分は半年だけという区切りを持ってボランティアをする

と話していた地元南相馬市の方

 家庭菜園で野菜を作っているが、まだ自分で食べていない
 食べて良いのかどうか、自分で判断できたら食べてみるつもり

そう話していた被災者の方

なんとなく中途半端な気持ちを引きずりながらも、再び新潟へ向かいフェリーに乗り込んだ