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私的 3.11 考

放射性物質が広範に降り注いだ福島県

私には理解し難い論調を目にすることが、ままあります

「野菜や果物など、地元産の食材が安全だとはいえません」
という理解は示したうえで・・・

「その中で生活するには・・・」
という展開をみせるのです


事実として、今現在でも、柿やきのこなどには「暫定基準値」とよばれる数値を超えてしまい、出荷規制等を受けている食材が少なからずあるわけです

それらを「食べる」のは安全ではないけれども、その環境の中で「暮らす」のは構わない、という訳です

現実の事象、農作物等からの放射性物質の検出、広範囲の土壌汚染、森林汚染、家屋汚染、汚染地域内の住民の存在
この中で、あるものをピックアップして「危険」とし、またあるものをピックアップして「安全」と言っているのと同様なのではないだろうか、と思うのです
そんなに都合よく、仕切りをつけることが可能なのでしょうか?

将来に発生する可能性のある、放射線による晩発性障害
この発生件数の見込みを、実は既に計算に入れた上で、経済的な比較衡量によって割り切った方策を採っているのではないだろうか、と勘ぐってしまいます

被災された人たちの犠牲見込みを前提としての将来設計
そんなこと、考えたくはないのですが、どうしても不安をぬぐうことができないでいます


汚染された池の中にいるフナ
食べちゃいけないけれども、その池で追加的に飼うことを推奨しているようにも思えます

「大事」は既に発生しています

そして継続しています


「小事」は事細かに対処されています

それが報道されます



いつの間にか、影響を及ぼす範囲が大きいものと、小さいものが同時に起きているとき、この国は、まず小さいことから処理していくという手法を優先するようになってしまったようです

小さなことは、処理も簡単、手間隙もかからず、「正しいことをした」とアピールしやすいからでしょうか


他方、大きなことに対しては、手をこまねいて、「あーでもない、こーでもない」と、どっちつかずの状態にしておいて、気がついたらうやむやになってしまっている



「正しく恐れよ」

そんなばかげた標語にどんな意味があるのでしょうか

恐れの理由を頭ごなしに否定し、正しい理解があれば恐れは小さいのだ、と明確な根拠もなしに押し付けています

「正しく恐れよ」の「正しく」とは、いったい何なのでしょうか

相反する見解が両立している時に、一方の見解のみを「正解」だと決め付けて、他方を消去法で不正解とする

そのような無茶を、知識人と呼ばれる人たちが表明し、大手メディアが広告しています


この国は小事ばかりを大切にする、小人国になってしまったのかもしれません


大事に対峙する事は、場合によっては自らの全てをなげうつ覚悟が必要なのかもしれません

それでもなお、大事に正面から向き合う姿勢を、責任のある人たちは示さなければならないのでは?

仮にそれができないのであれば、責任を放棄し、その責任の発生根拠たる地位等から速やかに離れるべきではないでしょうか


自己にとっての「大事」が見えていない、見ようとしない人が多すぎる、と思ってしまうのは気のせいでしょうか



夜更けという時間のせいでしょうか、物言いがきつくなってしまいました

夜更けのせいにしてはいけないところなのではありますけれども

とある方のブログを震災以後、継続的に見ていました
非常に建設的な提言も多数書かれており、それらすべてを否定するものではないことをお断りしておきます

読むにつれて、これで良いのかな?と感じた部分があったので、数度書き込みを行ないました
放射能があるにはあるが、ここは暮らせる所である、という前提だったためです

また実際、今現在も少なからぬ人たちが遠方に避難をしているさなかであり、それについて、避難するしないはそれぞれの判断である、との見解もいただきました

いわゆる低線量被曝の問題は、現に住民が住んでいるから安全、という方向を打ち出すことは論外です
どこまでが安全か、危険かの線引きに関しても、学者(専門家)間での合意が得られている状況ではありません

日本の法律に関して言うなら、武田先生(中部大学教授)の「1mSv男」ではありませんが、年間に1mSv以内の被曝に抑えなければならないという規定があります
さらに、外部放射線にかかる線量として、放射線管理区域の設定基準を 1.3mSv/3ヶ月 と定めていることも無視してはいけないと考えるべきでしょう
(年間 5.2mSv 、1時間 0.6μSv)
これらの基準が法律として定められている事実、その目的を無視して、それを超えて 10mSv/year や 20mSv/year であっても安全だと論じてしまうことに、私は違和感を覚えてしまいます
しかもそれが、政治的な判断によってなされてしまうことに対する危惧を覚えずにはいられません


私の書き込みを以下に記します
(一部伏字、固有名詞の書き換えがあります)
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○○様の戦略の数々、放射能問題が無いという前提でのお話と承りました

既に大きな企業の撤退がニュースとして流れていたり、他にも企業の△△地域からの撤退の噂が聞こえてきている状態です

噂の域を超えませんが、現首長のご家族は△△にはおらず遠く離れた地においでのこととか
また○○様のご家族も同様ではなかったかと思います
放射能の問題が無ければ、そのようなことになっていたのだろうかと頭を悩ませております

放射能の問題が存在し続ける以上、失礼ながら、これらの戦略構想も残念ながら絵に描いた餅以外の何物でもありません
例えば、ウクライナ政府がお墨付きを与えたからといって、チェルノブイリの農産物を輸入してまで食べたいとお考えでしょうか
放射能に汚された食物が不味くなるならば結構なのですが、「美味しい」と「放射能」とはまったく関係が無いのです

今現在必要なことは、もしも将来にわたっての健康被害が予想し得るのであるならば、その対策を打つこと以外には無いのではないかと思われます
「ただちに」健康への問題が生じないことと、将来にそれが発生する可能性が否定できないこととは、まったく別個の事柄ではないかと愚考しています
△△自治体や□□県が自治体としての住民からの信頼を損ねつつあること、これに対する根本的解決を模索することが、今求められている最重要課題ではなかろうかと感じているところです
それがなされないままで時の経過を待つとするなら・・・
考えたくないことではありますが

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一点だけ。
ほとんどの人に影響が無くても、低線量の被曝によって健康に障害を受けてしまう人が存在する可能性を忘れてはならないでしょう。
これまでの日本の公害や薬害、広島長崎でさえ、健康被害と原因との因果関係を厳密に立証する手段の不十分なことを理由に、放置されてきた人たちが少なからず存在しています。
訴訟によることしか救済を求められず、長期間強度のストレス下におかれ、セカンドレイプとも例えられる状態にさらされる人たちの存在。
今回、被曝する可能性のある地域は広範囲で、個人の放射線に対する感受性の程度によってはどの地域で将来の発病をみることになるのかまったく予想もできません。
一人の発病も無いことが理想ではありますが、それはまず考えられないのではないでしょうか。
そういった場合の救済手段を構築していくこと、病気損とならないシステムや社会的な合意を築き上げていくことも忘れてはならないと考えています。
発病した自分が悪いのだ、という意識を持つことの無いように支えていくことも小さくない問題として捉えていくことが必要かと考えています。

国の責任と言ってしまえばそれまでかもしれません。
しかし、地域としてもいわば犠牲になってしまった人に対して白眼視するようなことなく、それを支えていく基本的な姿勢が必須ではないかと考えています。
村八分システムがまだ生きている土地であるからこそ、それは重い課題ではないでしょうか。


追伸;

○○様も触れておられましたが、今なお震災と放射能問題による強度のストレスが住民にのしかかっている状態です。
メンタルケア、心療内科等の不足は今後の復興に差し支えることが考えられます。

児童、生徒たちに対するケア。
大切な人を失った人に対するケア。
生活基盤を失った人に対するケア。
地域コミュニティからこぼれている人のケア。
など、あらゆる被災された方たちに対してのケア、カウンセリング、治療などは、急ぎ拡充していく必要があるはずです。
訓練を積んだ自衛隊や警察官等の中にさえ、被災地での活動後にPTSDにかかってしまう人がでています。
一般の人に対しては、なおさら十分なケア支援体制が必要だと考えています。

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いわゆる低線量被曝

これに対しての反応が、国内で二分されている様子
安全だと考えるもの、危険だと考えるもの
なぜこうも正反対の方向を向いてしまうのだろう

ICRPの勧告、各種報告書
チェルノブイリやスリーマイルズの公式報告
これらは低線量の被曝に関して、あくまで特殊事例と捉え、危険性を重視していないようにも感じる

日本の法律
政令、省令(以前の)
チェルノブイリでの現地活動による実態報告
これらは、低線量の被曝をある程度は危険なものと推定している(いた)ようにも感じる


そこではたと考えた
日本の政府に対する信頼度の低下に、大きな一因があるのではないのか
 原子炉の爆発の危険性を把握できず(3号機は爆発の事実も把握できなかった)
 放射性物質の拡散を予測しながら公開せず(SPEEDIの公開は一ヶ月以上後)
 法律に定める1mSv/yearの基準を忘却し
 放射線管理区域を定めた法律を忘れ(約5mSv/yearで管理区域設定)
 輸入品に対する放射線量規制を忘れ(370ベクレルで輸入差し止め)

そのほかにもあるかもしれない
 マスメディアに対する不信感
 御用学者、原子力村という言葉に象徴される、原子力に関する特殊性
 等々

では何が、今至急に行なわなければならないことなのか
・可能な限り放射線の影響域からの」離脱 
・綿密な放射線量測定と汚染状況の把握
・放射性物質を含んだ廃棄物の処理方法と、処理場の確保
・晩発性障害が発生した場合の、対応(医療、保障、ケア)を備える
・その他

離脱については、個人の自由という無責任な態度で臨むのではなく、国や地方行政が責任をもって働きかけることが肝要だと考える
離脱者を裏切り者扱いする風潮が現地には少なからずある
複数の事例を耳にした
地方行政は、とかく組織を保守することに傾きがちであるが、市民町民村民を守れない組織など「奉仕者」たる公僕の名に値しない
そのうえで、組織をどのような形態へ変えていくことが必要なのか、望ましいのかを、広域の視点で先を見るべきだろう

定点観測で放射線量を測定し続ける意味は、全体の放射線量の動向を見る上では有効かもしれないが、実際に被曝する恐れを軽減するという意味においては不足
ホットスポットの発見を、住民に任せるのであれば、それ相応の危険手当を支払うべきだろう

廃棄物の処理方法と、処分場の確保は、特に優先して行なう必要があるだろう
もし、この地域を再生しようという未来図を描いているのであればなおさら
放射性廃棄物の移動に関しては法律の定めに従い、行動する以外には無い
発生地(原発)に近い場所に処理場を建設しそこで処理していくことが筋であり、いたずらに放射性物質を全国に拡散させるような愚は起こさずに済む
※全国に広く薄く拡散させて、放射線の影響を相対的に小さくしよう、という考えで国が主導して動くのであれば、それはそれで良いのかもしれないが、そういう議論は聞いたことが無い

晩発性障害に対する万全の準備
これは今から着手しておく必要がある
発症してから動くのでは遅すぎる
仮に、晩発性障害と疑われる症状が出て、治療を要する事態になった場合、恐れるのは原発事故との関連性を否定され、自己の責任において治療をしなければならなくなること
チェルノブイリでは、ICRPの報告書は「甲状腺がんは風土病」との見解を示した(後に訂正)
そのように事故の被災者だけが苦しむ状況に陥った場合、その人の周辺を含めていくつもの人生が破壊されてしまうだろう
福島県の県立の医大は、今のところ一部で評判が芳しくないようではあるが、その責任を果たさないとなれば存在の意味を失うのではないか
人体実験、と非難されることなく、医療に向き合って欲しいものだ


その他については、
・この事故における風評被害の「風評」の定義をすること
・放射能トラウマ、と称されるものへの対処

風評被害という言葉だけが大通りを闊歩しているが、その風評とは何を指すのか明らかではない
その言葉を使う人によってもまちまちで、誰かの言い草を借りて言うなら「風評おばけ」である
国内と国外に対して、風評の意味を分けて使うような愚策は決して用いるべきではない

放射能トラウマ、主に低線量危険説の立場をとる人に向けられる言葉のようでもある
徒に恐れることによって、かえって精神のバランスを崩して体調への影響が現れてくる、というものであろう
しかしながら、それはなんらの非難に値することではなく、むしろ当然のことではないかと思われる
津波を目の前で見てしまった人に対して、津波トラウマ、と言って地震が起きるたびに緊張してしまう人を貶めるのと同じことであろう
心療内科やメンタルケアの必要な部分であり、現地ではそれが絶対数で不足している
子供から大人にいたるまで、多くの人がケアを必要としていることは明らか
それは放射能トラウマだから、放射能は怖くない、という極論は避けるべきだし、まずは不安な思いを共感し、共有していくところから、トラウマを軽減させていくことのほうが、重要ではないのか


現地に残らざるを得なかった人たちは、みな迷い、悩み、そして今の自分の選択が正しいのかどうか自問しながら毎日を送っている
そういう人たちに対して、攻撃するのではなく、寄り添う姿勢で対処できればとも思う

除染活動に対しても、あたかもそれに参加することが住民の「神聖不可侵なる義務である」かのような強制力を、地域によっては持ちつつある
素人が何の防御も無く立ち向かえるものであるならば、誰も逃げたりはしないだろうし、避難勧告すら出なかったであろう
目に見えないものであることが、いっそう事態を混迷させているのであって、毎日をそこで過ごしていると感覚が麻痺してしまうことも理解できる
けれども村八分的な狭い視野でものを見ることだけは、避けて欲しいとつとに思う


なんだかまた無意味なことをつらつらと書いてしまった・・・
今年また一つ、嫌いな言葉ができてしまった
大地震直後からTVを通じてひたすら連呼されたフレーズ
「直ちに・・・ございません」

言質を取られぬよう精密に練られた言葉であろうことは推測できる
けれども、生きた人間の匂いがしない

ちなみに、嫌いな言葉をもう一つ挙げるなら、「不適切」
なんでもかんでも「不適切」で押し通してしまう傲慢さがにじみ出ているから
責任を放棄したこれらの言葉は、どうしても好きになれない

私も心が狭い人間なのだなぁ・・・