wildfire says... -4ページ目

wildfire says...

私的 3.11 考

3.11の震災以来、「つながる」、「絆」、「ともだち」等々の、自分の周囲の人間との関わりに重きを置いたフレーズばかりが目に付く

自分が一番大切なのはもちろんだが、それを最優先にした行動は他者との摩擦をいたるところで生み出す
実際にそういう光景は、被災地域で少なからず目にしてきたし、そういうものなのだろうとも思う

つながっていないから「つながり」を連呼し
それがないから「絆」を目印にし
本当にそういう存在がいるのかどうか分からなくなるから「ともだち」を求める

他人との関係が生ずることで、社会性がそこに生まれる
社会性に欠けていても、平常時の日常であれば、さほど気に病むこともないのかもしれない

他者との関係のはじまりとなるものは、家族だろう
震災に限ったことではないだろうが、何か平穏を乱す事態が起きたとき、自分ひとりではどうにも出来ないとき
家族の存在が大きな意味を持つことになるのだろう
家族のあり方、今の日本全体に問われているものなのかもしれない
そんな風に感じている

支え、支えられ
そんな関係の根本に、家族が位置していないとすれば

そうではないことを祈りたいものだ
3月の震災以来、考え続けていることが一つあります

これはいったい、どこの世界のことなのだろう?と

地震は家屋や液状化、土砂崩れのあった地域だけのこと?
津波は、水をかぶった地域だけのこと?
放射能は、ふくしまだけのこと?

切り捨てる思考が当たり前になっているのかもしれませんね
都合が悪いところは、無かったことにしてしまう
そんな気がし続けています

都合よく切り分けて物事を考えられる人たちが、地位を得て利益を得て権力を得て、という世界なのかもしれません

私には出来ないなぁ

家屋や土地の被害がなくても、地震の被害者はいる
津波をかぶらない津波被災地もあれば被災者もいる
放射能なんか、世界中が被害者ではないのか

そういう考え方は、受け入れられないのだろうと思います
でもそんなに都合の良いことばかりで物事が進んで良いのかなぁ

そんなことをここで書いたところで、何にもなりはしないのだけれども

やっぱり私はバカなんですね~
ふくしま会議の初日全体会議を少し見た

どなたかが、 20mSv/year 以下なら安全なので、この地域で安心して暮らしていきたい
というような発言をされていたように思う

本当に安全なの?
本当に安全ならば、それに越したことはないし、何の不安も無く暮らしていけると安堵したい

他方で、法律に 1.3mSv/3month を基準として、放射線管理区域を設定する旨の規定がある
これは年換算で、 5.2mSv/year という線量率になる

実態と法文とが乖離している、ということはままあることではある

次に、これはどう見るべきか

被曝による白血病の労災認定基準
これは、 5mSv/year となっている
(5mSv x 従事年数)

20mSv/year という基準が、安全だと宣言できる法的な根拠はどこにあるのだろう


こうしてみると、安全だといえる基準がどこにあるのか、曖昧になってしまうのではないだろうか

法律や労災の基準は、およそ 5mSv/year 
メディアを通じて口表される 20mSv/year


事故当初から、明確な情報を故意に出さず(パニックを恐れたと表明している)、ただ「直ちに健康への影響はありません」と繰り返し続けた国(政府)
事故のデータを時間の経過とともに良くない方向に修正し続けた東京電力
これらの情報ばかりを、一面で伝え続けた新聞社
やはり同じような情報ばかりを流し続けた報道番組

これらの情報伝達が果たして信用に値するのかどうか、という点をとってみても疑問符ばかりが浮かぶのではないか

そして今彼らは、風評被害の拡散を問題にしている
よく見ると、この風評被害なるものを拡大、拡散することへの貢献度は、彼らに帰するのではあるまいか

住民の誰よりも真っ先に逃げ
住民の誰よりも安全な場所から
住民の誰よりも安全を訴える

政府や東京電力、大手メディア、何をしたいのだろう


放射性物質にどれだけ冒されているのか判らない農畜産物が、一時的とはいえ日本の広い範囲に流通していた事実もあった
それを氷山の一角だと考えた国民は少なくないのではないだろうか
そして、公的機関等は、現在は線量を測定しているので安全であると宣言している
国民が、安全だという作物など、それもまた氷山の一角なのではないかと考えることに非はあるのだろうか
そして、公的機関等は、そろって風評被害を無くそうキャンペーンを行なっているようでもある
何かおかしくないのかな

たとえば、震災直後の被曝もあわせて、実際に少なからぬ放射線を浴びながら、今現在もその地域で生活をしている人たちの存在
たとえば、丹精こめて作った農作物などが売れないと嘆く生産者の存在
たとえば、福島産の農作物を率先して買おうとする人たちの存在
たとえば、見切りをつけて、遠く離れた地への移住や非難を決断した人たちの存在
たとえば、傍観している人たちの存在


なにかおかしくね?
という声をあげることは、おかしいのだろうか


これは放射能ストレスという類の問題なのだろうか
もしそうであるならば、ストレス対策に要する治療やカウンセリングなど、メンタルケアにかかる予算や制度の設定は、非常に重要な課題なのではないだろうか


論点をすりかえたり、私は発病しないと信じ込んだり、お前も発病しないと押し付けたり
こんな国なのかな、というのが素朴な疑問


たぶん、何年か先に、被曝地域にいた人たちの中から、甲状腺や免疫等への疾患が発生したとしても、かつてどこかの機関が公表したように、風土病(ふくしま病?)とされたり、メンタル疾患と分類されてしまうのだろうな

今できることは、将来にわたって、こうした不幸な患者の発生が無いことを祈るだけかもしれない
愚者の提言

無位無官 wildfire
2011.08.08


1.現実は厳しい
 1-1.脱原発は良いけれど
 1-2.除線後に出るゴミはどうする
 1-3.沿岸部の居住地だった場所はどうする

2.原子力との共存
 2-1.移動できない原発設備
 2-2.大量の放射線汚染廃棄物の処理(処分)場

3.バラ色ではない復興計画


1.現実は厳しい

 1-1.脱原発は良いけれど

 盛んに「脱原発」「脱原発依存」がいわれているが、そこで考えなければならないのは、単に代替エネルギーをどうするかという問題だけではない。現在ある施設を今後どうしていくのかという視点を欠くわけにはいかない。特に、東電福島第一、第二原発は深刻な故障状態にあり、中でも第一原発は直ちに停止することすら難しい状況にある。脱原発をスローガンに掲げるのは良いが、それで原発そのものが地上から消滅してしまうわけではない。仮に停止したとしても、立地場所を原状に回復しようと考えた場合には、更なる難問と向き合わなければならないことになろう。ヒステリックに脱原発を叫んだところで、電気エネルギー問題以外の重要な問題点を解決してはくれない。
 では東電に責任を持って原発立地場所の原状回復を行なわせることができるのか。単純に考えるなら、設置者が設置物を解体して原状に戻せば良いということになるが、そう簡単に事が進むとは到底考えることができない。この点に異論を差し挟む余地は無いと思われる。原発立地自治体のみならず、近隣の自治体も、受容しなければならない負の遺産を長い年月引き継いでいくことになる。
 脱原発と叫ぶことによって原発問題を解決したような気になってしまわず、それとセットにして、既存の原子力発電施設に絡んだ問題を同時進行で議論していかなければならないだろう。


 1-2.除線後に出るゴミはどうする

 そろそろ各地で除線活動が始まってきた頃である。学校のグラウンドなどは表土を剥ぎ取り、あるいは入れ替え、さらには放射性物質を含んだ植物等を刈り取り、少しでもその地域の放射線量を下げる地道な努力をしていくことになる。
 表土や草木など、放射性物質を含んだゴミの処理は、いったいどうするのか。政府は8,000Bq/kg以下のものについては一般廃棄物として埋め立てよ、との方針を出したがこれでは全国各地に放射性物質をまんべんなく散りばめることになる。放射性物質の管理は、可能な限り一ヶ所または少ないヶ所での集中管理が望ましいのではないか。
 南相馬市の復興ビジョンにいう「環境と共生する」という考え方には、当然のことながら、現在積もっている放射性物質との共存(除線はもちろんのこと)という視点も含まれてのことだと解釈したい。どのような共存を考えていくのか、冷静に議論を進めていく必要があるだろう。もし単純に、震災前の状態を前提とした地域の環境、という考え方や、地震、津波被害のみを前提にした環境、という捉え方をしていたならば、それは大きな過ちであると指摘したい。現在の環境は、地震、津波、放射能というありがたくない3点セットの上に成り立っている。そう考えた上で、環境とどのように共生してゆくのが望ましいのか議論していただきたい。

 1-3.沿岸部の居住地だった場所はどうする

 浜通りに限らず、津波被害を受けた沿岸部は、地震によって数十cmから1m弱ほどの地盤沈下を起こしている。防波堤はなくなり、海岸の砂浜や防風林もほとんどを消失してしまった。地盤沈下をした沿岸部には、少なからず家屋があり人々が住んでいた。
 居住適地の判断を迅速に行なわなければ、場合によっては再び同じ場所に新築の家屋が建つということにもなりかねない。津波の恐ろしさを体験した以上、そのような動きになるのは極少数ではあろうかと推測されるが、それでもその心配はしておくべきであろう。その意味でも一刻も早く、居住適地の選定を行う必要があるのではないかと考える。
 南相馬市の都市計画に大きく関わる問題ではあるが、現状のように対応が後手後手に回っているときには特に、そのまま放置するようなことがあってはならない。放射線に関する居住適地も含めて、早急に的確な居住地の選定をするべきであろう。


2.原子力との共存

 2-1.移動できない原発設備

 東電原発に限らず、原発施設は廃炉とした場合でも即座に撤去できるものではない。安定的に停止させた原子炉でさえ、数年以上をおいてからようやく燃料の除去が行なわれることになるだろう。第一原発に至っては、核燃料の除去作業にかかれるまでに要する時間が全く予想できていない。今現在の科学技術では数十年先になるのか、50年、100年先になるのか。これはすなわち、その間ずっとその施設がその場所に存在し続けることを意味する。負の産業遺産と化した原発施設と、これからの将来どのように付き合っていくべきなのか、十分に考慮しなければなるまい。仮に撤去されるとするならば、それまでの間、それを横目で見ながら過ごさなければならないのである。

 2-2.大量の放射線汚染廃棄物の処理(処分)場

 東電原発事故によって排出された放射性物質は、その一部は実際に一般ゴミとして焼却されている。ゴミ焼却炉に濃縮された放射性灰の処分でさえ、満足に処理できていない現状である。今後、各地で除線活動が進むことにより、一層多くの放射能ゴミを扱わなければならなくなる。ではそのゴミは、どこへ行くのか。
 現在の国内には、そのような放射能ゴミを想定した処分場はどこにも無い。国は苦し紛れに、(国のいう)低線量の放射能ゴミについては一般処理場での処分を勧めている。しかしそれで対処しきれることだろうか。
 津波による膨大な瓦礫の中にも多量の放射性物質を含んだものが、特に原発に近い市町村を中心に存在している。おいおい撤去、処分しなければならないが、いつまでも仮置き場に野積みにしておいて良いというものではない。すると、どうしても放射能ゴミ専用の処理施設、処分場が必要になってくる。それをどこに設置するのか。
 国外にそれを求めることは、絶対に許されるものではない。国内に設定しなければならない性質のものであると自覚しなければならないだろう。残酷な話、無責任な話と受け止められることを覚悟の上で、それを浜通り近辺に場所を求めたい。
 理由は3つある。
その1点目は、東電原発に比較的近い距離にあるということである。何十年後かに解体されるであろう東電原発から出てくる放射能漬けの廃棄物の処理を考えたときに、移動距離が短いことは都合が良い。
2点目は、地域の将来性の点からである。元々、原発を誘致した理由に、地域の過疎対策、ひいては地方自治体としての財政的存続目的があったはずである。南相馬市も例外ではない。今回の地震が無ければ、何年か先に浪江町と小高区の境界に第三原発を誘致していたのではなかったか。地域人口の減少、急速な高齢化、地域経済の衰退等によって、自治体の財政状況を好転させる目処が立たなかったはずである。そういう事情を考慮した上で、今回、原発20km圏内や30km圏内といった政府による強制区分によって、この地域が破壊され、分断された事実を考える。ある意味では原発事故に加えて、政府の線引きによって破壊されたのである。これらの地域の居住者数を取り戻し増加させることは、実際問題として不可能なことであろうと推測される。
この際、助成金目的でも、交付金目的でも構わないので、浜通り地区に大規模な放射能ゴミの処理、埋設、保管等の施設を誘致、建設する方法もあるのではないか。
 3点目は、放射性物質の拡散を防止するという観点からである。今まさに、ゴミ箱の無い家状態に置かれているこの国は、放射能ゴミを部屋のあちらこちらに置きっ放しにしている状態であるといえる。ゴミ箱はどうしても必要であるにも関わらず、それが国内には一つもない。
 放射能ゴミを受け容れる代わりに、非常に手厚い財政的、法的保護を政府に要求するという発想もあって良いのではないかと考える。

 地下数百mでの深層保管という手立てしか、今の科学力では方策が無い。浜通り近辺地域で、安定的な地層などの適地を調査して、最優先復旧対策事業の一部として進めていくという動きも、考えに入れておいて良いのではないか。


3.バラ色ではない復興計画

 仮に現状のままで復旧復興を進めていく場合、必ず他の被災自治体との財源の奪い合いが生ずることは想像に難くない。そのうえ、放射性物質による汚染に関する問題が、時間が経つほどに大きな障害になってくるだろう。
 浜通り地区は「日本のチベット」であったそうだ。それが辺境という意味を持つのか、人口の少ない超過疎地域という意味なのか、交通の不便さを意味するものなのかは、知らない。少なくとも、原発という財政的打ち出の小槌に依存してきた(しようとした)地域であることは間違いが無いようである。震災前、かなり前から人口が減少し、高齢化が進み、誘致企業が撤退し、地域の活力が失われてきたようでもある。常識的に考えて、今回の地震、津波、原発事故を経て、将来的にこの地域の人口が増え、経済が活発化し、地方自治体の財政が潤い、というバラ色の未来図を描くことは困難の極みではないかと容易に推測できる。
 地域の放射能汚染に関しても、完全に除線ができて、即座に事故以前の状態にまで回復できるとは到底思われない。低線量被曝については諸説あるようだが、少なくとも被曝を前提として生活をしていかなければならない環境下に置かれたことに疑いを挟む余地は少ない。津波による「目に見える」圧倒的な脅威を経験し、放射能による「目に見えない」被害を蒙ったこの地域に、どうやって明るい未来を期待すれば良いのか。残念ながら明るい未来は無い、という前提で震災からの回復を考える視点が求められると言ったなら、悲観的過ぎるだろうか。
 避難先から戻ってくる人がいても、それは全部ではなく、仮に半数以上であっても一部である。自治体として、一部の住民へ行政サービスを提供できるだけの基盤は持ち得るのか。全部が戻ったとしても、震災前の財政非常事態宣言が出そうな自治体運営に近かった状態に戻るだけでは無いのか。しかも震災復興事業を抱えたままで。国の財政も万全ではないことは周知の事実であるし、完全なる復旧すら覚束ない可能性も否定できない。

これらの事情を考えた上で、この地域にしかできない復興再生、南相馬にしかできない復興再生を、国が最優先で資金投下せざるを得ないプランで進めていくしか、生き残る手段は無いのではないか。ほとんどの県や地方自治体の復興プランや考え方は出揃いつつあると思われる。五十歩百歩であると、誰もが感じているのではないか。その中から突出した形での、しかも国が重点的に資金投下せざるを得ない、さらに日本の重要地域として存続させていく方策として、突飛な考え方を愚策として書いてみた次第である。再生可能エネルギー振興に象徴されるように、何かイメージとしてクリーンなものへの「右へ倣え」状態が国内を席巻しているようでもある。大多数が「クリーンな何か」に向いている時に、敢えてダーティな復興再生もあるのではないか、という観点で考えてみた。大いに批判しこき下ろしていただけたなら幸いである。
終
夏になってもまだ「ヒサイシャ」

無位無官 wildfire
2011.07.26

1.復興を遅らせる理由

2.小さな(小さくしたい)政府とNPO乱立

3.被曝に対する考え方の両端

4.日本のチベットは団結しないのか

5.これまでの提言について


1.復興を遅らせる理由

1-1.国として

 国内全体を見回しても、具体的な復興に向けた実践なされている形跡はほとんど感じ取れない。むしろ忘れ去ってしまおう、という方向でノロノロと動いている印象を拭い去ることができない。穿った見方であろうか。
 国としてどういう復興を目指して、何を行ない、どのように被災地域をリードして行くのか、という積極的な姿勢は全く感じ取れない。とりあえず、復興構想会議の提言は出しました、復興基本法案は出しました、2次補正予算までは組みました、と、この震災に対しては極めて消極的な関わり方に終始しようと努力しているかのようでもある。部分部分についての対処療法を施しておけば充分であろう、そんな意気込みが感じられる状態にある、と言っても過言だと思う人は少ないのではあるまいか。
 最終的(数十年先?)には、この地域はこういう姿となって日本を支えている状態にするのだ、というビジョンと施策をを国は責任を持って示さなければならない。復興構想会議の提言程度の内容では、全くもって不足であるとしか言いようがない。行き当たりばったりの首相に、言質を取られないことのみに腐心している官房長官、最早日本の指導者としては誰一人認める状態には無いことは明白と言ってよかろう。
 なぜ広範な震災被害と正面から向き合わないのか。
 莫大な費用が確実に短期的に見込まれること、この1点に尽きるのではないだろうか。
 短期間で国家予算を揺るがす規模の復興財源を捻出すること、長期間にわたって確実に現れるであろう被害実態に応じた財源をその都度講じること。この極端な二択をしてしまったのではないかとも推測できよう。だとすれば情けない限りではあるが。
 そう考えてしまえば、復興を今すぐ急いでやり抜くのだ、という基本姿勢に欠ける国の施策に対する説明も簡単につくのかも知れない。時間の経過と共に、被害は顕在化するだろうが、同時に記憶は薄らいでいく。薄らいだ記憶に応じて、顕在化した被害に処すればそれで足りる、そういう発想が基本にあるような気がしてならない。つまり、今更慌てて復興を急がせる必要もないのだ。

1-2.被災自治体として

 いつまでも平時と同じように、国からの財源待ち、指示待ちをしてさえいれば、形式的には行政の怠慢をそしられることは無い。なぜならばそれが、日本の社会を支えてきた行政システムであり、その頂点には民主主義の発現である国会があるのだから。従前同様に権限の及ぶ範囲に忠実であれば、システムは維持できるのだから。
 ところが、今回の被災に対して、従前の地方行政システムではどうにもならない問題が山のように積み重なっていることは、どの自治体に聞いても否定しないところであろう。震災対応で行政機構を改編した自治体も少なくないのではないかと推測する。そこで行き詰まるのが、財源と権限の問題であったのではないか。これは県の権限、財源で処理すること、これは国の権限、財源で処理すること、そう考えた時点で思考が止まってしまう。平時ならばそれでも良いのかもしれないが、この非常時に行政システムの割り振りに囚われていては、結局何もできないままで時間だけを費やしてしまうことになるのではないか。
 国は、「自治体が汗をかかない」と批判し、自治体は、「国が何もしてくれない」と国を批判する。3.11以来今日まで続いている空白の時間は、このためではないのか。であるならば、そのような不毛な行政システムは忘れ去ってしまおう。
 国が曖昧な復興ビジョンしか示さないのであれば、自治体はその大筋さえ外さなければ自由に復興を企図できる、そう発想を転換させることも必要であろう。財源が無いのであれば、直接国に対して請求書を出してやればよい。乱暴な物言いを許してもらうなら、国と対等な一自治体として、堂々と復興を論じ、財源を、権限を分捕ってくれば良い。いつまでも「下賜」されるのを待っているだけでは、被災地の前途は明るいとはいえない、と考えては乱暴だろうか。


2.小さな(小さくしたい)政府とNPO乱立

 巨額の財政措置が必要なことは明白であるが、可能な限り小さな予算措置で乗り切ろうとしている国の姿勢は、誰の目からも疑いようの無い状態であると推量される。放射能事故に関しても、東電と国との責任(賠償費用)分担比率についても未だ示されず、根本的な被害実態、賠償範囲の策定についても、消極的姿勢をもって臨んでいる。
 放射能事故に際して、第一に何をしなければならないのか、第二に何を優先するべきなのか、最終的にはどのように解決していくのか、国の対応にはその明確な指標は存在していないようでもある。広範な汚染地域をどのように回復していくのか、あるいは回復しないのか、そのようなことさえも見えてこない。各プラントのメルトスルーが発覚した時点で、水素爆発の危険はなくなったとみなして良いはずなのに、ご丁寧にも修正されない行程表に従って粛々と無為の時を過ごしているようにも見受けられる。
 包括的な事故評価をしないことで、または評価の修正を適宜しないことで、結果として事故自体を小さく見せることに腐心している、そんな見方もできるのではないか。3月の水素爆発当初から、気流と気象条件によって、どの地域でどれだけの汚染が見込まれるのかは、把握できているはずである。そしてそれに対応した指示、命令を発する権限と責任が国にはあったにも関わらず、全く考慮されない線を引いて、徒に「直ちに健康への問題はありません」と繰り返してきた。
 この思考は、被害は小さい、ゆえに財源確保もそれに応じたもので良い、という結論を招くのであろう。「直ちに影響は無い」以上、直ちに大きな財源を確保する必要を認めない、それは将来に確保して当たれば良い、ということになるのであろう。

 さておき、国の腰の重さ、県の腰の重さ、自治体の腰の重さに業を煮やした地域住民、他県ボランティア等が、独自の動きを見せつつ被災地への支援をしてきた。賞賛すべきことである。これまでは、現実的に「いま問題」である事項に対処すべく支援を続けてきたこれらの人々が、NPO団体を設立して長期に渡って被災地支援を続けて行く姿勢を見せている。困っている人を見捨てることはできない、という人間の尊厳にも関わる問題として、これらの動きは評価に値するものであると考える。しかしこれが長期に将来的な活動を行なっていく時に、何がしかの問題が生じてくるのではないかと危惧する。
 今までは、市町村行政の手の届かないところを埋めていくように活動していけば足りたが、これからはその行政との関係も大きくなってくるのではないかと思われるのである。実際に困っている被災者の支援、避難所での活動、被災地での人力作業など、政策的な意思決定とは無縁な活動場所において、これらの支援は有効である。ある程度の仮設住宅が完成し、入居者が増え、ライフラインの回復を見、一応の復旧活動の土台が整ってきた時点からは、政策に関わる活動への関与も発生してくることは必須であろうと推測する。
 NPO団体は、法人格こそ付与されるものの、基本的にはボランティア団体の延長にあり、政策的な関与は予定されていないし、そのことへの責任についても持ち得ないものである。あくまでも意思決定機能を除く行政の手の届かない部分への補完的な関与が期待されているに過ぎない。福島県内でも震災以降、10程度のNPO団体の申請があり、4つほどは既に認可を得ているとのこと。今後はこれらのNPO団体間での調整や、行政システムへの過度の関与を防ぐなど、NPO団体それ自体の活動意義、存在についても検証が必要な状態になるであろう。仮に一部のNPO団体が地方行政や県、国への影響力を持ってしまうとすれば、市町村、県、国に各々設置されている議会という民主主義システムへの越権的介入ということにもなりかねない。そのような圧力団体化したNPO団体を生じさせないよう、どこかで規制、監視する制度もまた必要になるのかもしれない。


3.被曝に関する考え方の両端

 東電原発の事故によって、多かれ少なかれ被曝を免れることは困難な状況に陥っているといわざるを得ない。ことに、一過性の問題としては扱えない点が、事態を難しくさせている。
 「暫定基準」というものが幅を利かせているのであるが、ではいつまでその暫定に頼らなければならないのか。暫定とは恒久を意味するものではなく、一時的、仮の措置という意味であることは説明するまでもない。
 現在の政府は、国際的な基準(指標)というものを都合よく持ち出して、被曝実態を覆い隠し被害が無いかのように見せることに腐心しているようにも感ずる。放射線管理区域という規定が法令に定められているが、そこに示された基準を上回る地域が実際に存在し、現に人々が生活して(いる)きたという事実がある。法を厳格に適用するならば、放射線業務従事者の資格登録を行なった上でなければ入り込めない場所で、一般の人々が日常を送ってきたのである。この一点を考えただけでも、国民の被曝に対する国の考え方が推し量れるといえよう。
 国の方針は理解した上で、では、県、市町村はどのように判断すれば良いのか。国に従って行政としての意思を統一していくのか、それとも二重行政の批判を恐れずに国よりも厳格に被曝管理を行なっていくのか。
 地域の問題として、この被災地を将来どのような姿にしていくビジョンを持ち得るのか、この点が問われるのではあるまいか。
 最も悲惨な可能性を考えるなら、放射能被災地はそのまま放置され、住む人も徐々に少なくなり、かつて住んでいた人々の中から何名かが放射線障害を発症し、その情報を抑えられなかった場合には益々住民は他の地域への移住を促進させていくことになる。もちろん地域経済は破綻し、ゴーストタウンが発生して、浜通りは「かつて人が住んでいた地」として紹介されることになる。
 同時に最も希望的な可能性を考えると、放射線の影響は全く発生せず、徐々に住民が帰参し、復興特例法によって地域経済が活性化し、浜通りは「希望の地」として現に紹介される。
 さて、どちらがより可能性の高い極論であろうか。


4.日本のチベットは団結しないのか

 浜通りは、かつて「日本のチベット」と揶揄されていたらしい。
 本当のチベットとは違い、民族や思想、宗教ではなく、地方自治体によって複数の地域に分割され、財政基盤や主力産業については各々若干異なる事情を抱えていた。
 今回の放射能被災により、双葉、大熊等の各町村は自治体ぐるみの避難を余儀なくされ、南相馬、飯館等の各市町村は一部避難を強いられた。
 先の見えない自治体の運営は、困難を極めるであろうことは想像に難くない。避難した住民も、日本全国に散っているといっても過言ではない状態に置かれている。このような状態で、果たして自治体としての機能をなし得るのであろうか。
 国が提示した復興財源は、必ずしも優先順位があるわけでもなく、増して無限でもない。限られた資金の中で、可能な限りの復興を模索しなければならない。その上、放射能被災に関しての資金の出所は、国と東電とに分かれることが予想される。おとなしくしていれば復興財源を手厚く配分してくれるような思いやりを持った相手だとは、到底考えられない。まして復興事業は他県とも競合しているのである。場合によっては、面倒な放射能被災地は後回しにして、しばらくは東電に任せておいて、それからゆっくり国の出番を待つ、というような姿勢を見せるということも危惧しておく必要があるのではないか。
 個別に見た事も無い大金を一時的に提示されて釣られてしまう、という解決策は容易に想像し得るところである。地域住民を守るという立場から、各自治体がそのような解決方法を考えることもできるし、その判断を非難することは外部の者はできないだろう。地域社会の問題であるのだから。
 そのような解決策を是としないのであるならば、少なくとも、土壌等の汚染に対する原状回復、実被害に基づく被害額の算定、原発事故による広範な被害に対する保障などを、自治体としてこれから交渉していかなければならない。国に任せても良いならばそれでも構わない。結果は推して知るべし、であろうけれども。
 交渉していくにあたっては、緊急性、被害の広範囲なことから、自治体ごとに動きを見せたところで、やはり個別に札びらで顔を叩かれて終わってしまうことになりはしないか、という懸念を抱いている。放射能被災自治体が結束して、より大きな動きを示すことによって、東電や国に有無を言わせないうねりを起こすことこそが、将来の地域という観点に立った時に重要になるのではないかと考えている。
 外部から見ている限りにおいて、放射能被災自治体同士の連携は、皆無であるとしか思えない。更に加えるならば、自治体ごとに解決を図った場合には、必ず自治体間での差異が生じ、それが将来の禍根にもつながっていくのでは無いかという恐れも感じている。必ず連携は必要であり、場合によっては被災地合併等の大胆な地域未来図を描くことも視野に入れる必要があるのではないだろうか。南相馬は生き残ったけれど、浪江は死んだ。そういう将来は、浜通りに住まうものとして誰一人望むことではないと確信している。
 交渉にあたっては、事故以来現在までの過去の被害補償、賠償、慰謝料は当然ながら、将来にわたって発生しうる未来の保障、賠償、慰謝料についても同時に進めていかなければならず、事情の変更によるそれらの増額についても当然の事項となろう。
 連携した市町村は合併が望ましいと考えるが、居住可能区域、立ち入り制限区域を明確に設定し、放射能汚染にかかる復興事業の請求書を全て東電に回してやれば良い。
 今を見るだけでは不足である。将来、少なくとも30年~50年、100年を見てあたらなければ、「ヒサイシャ」から抜け出すことは困難であると指摘したい。


5.これまでの提言について

 これまでの提言、愚考等で様々なことを書き連ねてきたが、一部訂正をしておきたい。
 F.A.R.(フクシマアグリレギュレーション)の基準について、政府が発表している暫定基準値に基づいて提案したが、私の提案を更に厳しくして1/10の値に設定したい。低線量被曝というモンスターについては、必ずしも定説が定まっている状況ではなく、暫定基準値自体の意味を問う専門家が存在しているのも事実である。ヒロシマ、ナガサキを通しての研究に対しても、近年疑義が提示されていることからも、より安全な被曝を目指して私の提案としたいのである。被曝がどうしても避けられないのであるならば、可能な限り小さな被曝に抑えることが論理的にも有用であると考える次第である。
 危険が証明されないから安全、という考え方にはどうしても賛同できない。危険の証明にしても、恣意的にそれを排除しうる原子力を取り巻くこれまでの環境を鑑みた時に、住民を守る最後の砦はより高くしておく必要があるという理由からである。より高い防波堤は今回の津波によって破壊されたが、全く無用であったのかどうかの判断は今後なされるであろう。このレギュレーションの砦は、経済効果としてはマイナスにしかならないであろうが、津波と同様に考えるならば、より高い放射線が課される可能性は高くは無い。
終