wiggin's truth -17ページ目

無題

今日が祭日だということ、
まったくもって知らなかった。

駅に着いて、
いつもの時間に電車が到着せず
初めて気付いた。

去年の秋から
以前と違う仕事内容になり
カレンダーというものに
輪をかけて鈍感になった。
「何日以内に」
という感覚のみで仕事をしているからな。

うん、
今日が祭日だと知らなかったところで
何か支障がある訳ではない。

いつもと変わらず
ひたすら務めましょうかね(´∀`)



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イントロ

長い間 音楽を演ってきて
聴いてきて
気付いたことのひとつに、

// イントロが良い曲は、間違いない //

ってのがある。


「サビだけ」の曲(サビ以外は全く残らない)ってのがあって、
それはこの世の中の全楽曲のかなりの割合を占めるが、
そんな曲を作ろうとするならば絶対に
「サビイントロ」(※)にすべきであると思う。

※イントロがサビになっている曲。

まぁ、それは俺の中では「邪道」であるのだが、
「クソなイントロ」よりはいくらかマシというモノ。


新しく仕入れた音楽をiTunesで聴くとき、
俺は聴きながら★(rating)をするが、
イントロが格好いい時は、Aメロに達する前に
スカーン(キーボードを叩く音)と★★★★★(5つ星)である。
最後まで聴くまでもなく、「良い」ことが確定である。

逆に言えば、「良いイントロの曲が格好悪くなるのは"不可能"である」と言い切る。
「サビ以外グダグダ」ってのはいくらでもあるが、
「心惹かれるイントロに裏切られたためしがない」のである。


イントロについて考えてみてあることに気付いた。
それは(本当の意味の)「一期一会」に通じるということ。

しょっぱなから全力を尽くすということ。

初めに全力を見せたら、それを最後まで貫くということ。

「後には引けない」という誇り。



そして結局のところ、
俺が「イントロ」で判断するのは楽曲だけでは無いんだよな。

うん、そーゆーことだ。


まぁ、サビイントロには時々騙されるがね(´∀`)






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贖罪の意味

家政婦のミタを観た。

本放送の時は
長女の結が
「私を殺して」
と言ったエピソードで
包丁を持ったミタに追いかけ回されるシーンを
三分ほど観たのが唯一だったから。


先週、CSで一挙放送したから録画して観た。


ガン泣きした。


シンパシー。


エンダー・ウィッギンに対するそれと同じ。


シチュエーションの問題ではない。


人は
受け止めきれないものを受け取った時、
一体どうするのか。

そこに尽きる。


一般的に導き出される答えは判る。
でも、
それを善しとすることが出来ない人間は存在する。

縛られる必要のない縄を
敢えて頂戴する人間は、
確かに存在する。



エンダー・ウィッギンと酒を酌み交わせる俺は、
三田 灯とも酒を酌み交わせる。


心の飲み友達が
一人増えたよ(´∀`)








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ほーふ




抱負ってのは
背負いながら抱くもの。

背中に覆いかぶさってくる何かから
「これだけは」
と抱き、護りぬく決意をしたもの。

背負い込む諸々に折り合いをつけつつ
通すべきスジ。


君にはそんなものがあるかね?


え?
俺の抱負?

あるけども
知らない方がいいよ。
知ったらショック死するかもしれないよ(´∀`)


抱負ってのが斯くの如きものであるならば
他人に聞かせてやるものじゃないだろうしさ。

そんなもん
自分だけが知っていればいいことだよ。

俺はそれを粛々とやる。

それがウソでないことは
自分だけが知っていればいいことだよ。


自分だけが。














巷で見かけるソレが、
ほうふというよりは
語感がよく似た
「放屁」の様に思えて仕方ない。
出すだけだ。
しかも、まことに臭い (´°c_,°` ) プッ





 

音の解体新書



♪Now Playing♪ "Space Oddity"/ Best of Bowie (2006) / David Bowie, #nowplaying #withWhisky #GBR #Rock #ClassicRock | http://www.last.fm/user/YHWH



デヴィッド・ボウイのヨーロッパ版ベスト盤。
たぶん、現時点で最高技術を駆使してるリマスター。

うん
確かに、聴こえる。
今まで気付かなかった音が、ハッキリと耳に届いてくる。

しかしだ、
全然、よくない。


音の分離は最高。
各パートの音が微に入り細に入り理解できる。

しかしだ、
これはリマスターとかリビルドではない。
これはもはや、ミックスとは言い難い。
どう考えてもミックスではなく、// スプリット //である。

ミックスってのは、曲ってのは
「カタマリ」だと思うんだよ。

コイツは、解剖だよ。
パーツごとに切り刻んで、各部品を単体として陳列している。


確かに、オーディオとしては完結するだろう。
しかし曲としては、音楽としてはどうであろうか?

ミックスってのは、その曲を成立させる「コンセプト」ありきだ。
前に出したい部分、奥に引っ込めたい部分、
ハッキリと聴かせたい部分、聴こえなくとも察して欲しい部分、
それらをカタマリにして成立させるのだ。


全てのパーツを、同じレベルで聴かせる。
それってば、本来は「手抜き」であろうよ。

オーケストラだって、
「全てのパートを同じ音量で聴かせる」なんてのは論外だ。
そんなもんはオーディオであって、音楽では無い。
そんな馬鹿なことをするコンダクターは居ない。



デヴィッド・ボウイのこのミックスを聴いて、
「何でもかんでも聴こえさえすればいい」というものでは無いな、
と痛感する。

「曲」というものに感動するために、
細分化された全てのパーツを知る必要は無い、ってこと。
カタマリとしてのバランス。
それが肝要かと思う。



もちろん、それが解るならば
そのコンセプトは「音楽だけに留まらない」と知れる。

ある人物を知るために、
全ての要素を同じ音圧に圧縮し、
更にスプリットしてさらう必要は無い。

何を主張したいのかを聴き取り
カタマリとして理解する。
その人という存在を「バランスとして理解する」。



そこを意識すればこそ、
音楽だって人だって読み解ける。
そして、本当に愛せる。


全てのものを、「雑多なデータ」に還元してしまっては
情緒を解することは出来まい。

もちろん、情緒を解すると称して
雑多なデータ集めばかりしていたのでは意味が無い。

不要なデータに終始しては、
ひたすらに無味乾燥で支離滅裂になるだけだ。



そんなことに思い至った、
空腹な夜(´∀`)