wiggin's truth -19ページ目

ギフト

もう17年も前になるのか。
1997年の今頃。
俺は仕事中の事故で左肩から首にかけて肉離れを起こし、
それが起因となって「左顔面の神経麻痺」を体験した。

夜通し首の痛みと熱にやられ、それでも何とか寝たが、
朝 眼が覚めたら、俺の左半分の顔はまったく動かなくなっていた。

そりゃもう慌てた。
当時は接客業だったしな。
右半分は普通に表情豊か、でも左半分は「まばたきさえ出来ぬ無表情」。
そんな気色の悪い顔で対面の接客は厳しかろう。

約一ヶ月半の間、俺は「表情」の50%を失ったまま過ごした。
いろんな病院をたらい回しにされ、最終的に「麻酔科」に行き着くまで。

それはがんセンターのペインクリニックだったのだが、
別にガンだった訳じゃなく、近くにそこしか麻酔科がなかっただけのこと。
それまであっちこっちの医者に診てもらい、的はずれな診断をされ続けて一ヶ月以上を無駄にしたが、麻酔科に辿り着いて、ものの3日で復調に向かった。

だが、そこに辿り着くまで、
(後で発覚したのだが)
顔面神経が麻痺した時に最もやってはいけない行為であるところの
「顔のマッサージ」をどこに行っても「やるべし」と言われ、
律儀に言う通りにした結果が「表情筋の数カ所の断裂」を引き起こし、
俺の顔の左側は今に至るも、何ヶ所か動かない。
左眉を動かす筋肉と、左口角及び唇を動かす筋肉。
お陰で、まばたきの際に完全に眼を閉じきれてないので四六時中、左目だけ涙が出るし、うがいの際は手で唇をつままないと、水がピューっと出てしまうw


さて、ここまでは前置き。


麻酔科での治療によって、断裂を免れた7割程度の表情筋は動くようになり、
「完全な弛緩」からは脱却して、「黙っていれば麻痺したことは判らない」程度には治った。

しかしだ、
上記の通り、「筋断裂した部位」は
随意であろうが不随意であろうが、動かない。
要は、俺の左半分の顔は、表情が乏しい。

以前から知ってはいたが、
人間の感情ってのは、顔、つまり表情に顕著にあらわれる。

表情筋のうち、随意筋はある程度、その名の通り随意で動かせるので
感情に逆らって動かすことが出来る。
(かなり昔、デビュー当時の竹中直人の「笑いながら怒る人」ってネタがあったなw)

しかし、人の感情ってのは不随意筋にこそ如実にあらわれるものなのだ。
特に眉から上瞼と口角周辺の不随意筋に対して感情がもたらす筋収縮命令は、意志でもってコントロール出来るようなヌルいシロモノでは無いらしい。
上に挙げた竹中直人の「笑いながら怒る人」にしたって、笑みに「近い」表情を随意筋で作って口からは怒鳴り声を発するわけだが、冷静に見れば、その表情は笑いというほどのものではない。
怒鳴り声を伴うから笑いに見えない、と云うよりは、「感情が笑っていない」から不随意筋は「困惑と緊張」を表出してしまうのだ。
笑みのカタチの口角の上がりと、コミカルな首振りの動きのみで辛うじて「笑いながら」としているが、眉やまぶたの緊張は「眼が全く笑っていない」ことを隠すことが出来ない。


で、本題。


普通の人間は、こと表情に関して「感情を隠す術を持っていない」ということなのだ。
意志で随意筋を抑制することは出来ても、不随意筋への感情の作用は、不随意であるが故に誤魔化しようが無い。

つまりは
それらの心得のある人間に対して、感情を隠す手段は無い、ということだ。

ところが、オイラの様に「表情筋の特定の部位が物理的に動かない」人間はどうか。
特に感情の表出が顕著な目の周辺や口角周辺の筋肉が動かない人間は。

どうやっても動かない筋肉に対して、いくら感情と云えども作用をもたらすことは不可能。

つまり俺は、
「感情の約50%を、他人に気取られることが無い」ということになる。
これはある意味由々しき事態である。
下手をすれば、俺は「コミュニケーション能力のかなりの部分を失っている」と言えないこともない。

俺は表情でもって、周りの人間に己の感情を伝えることが困難である訳なのだ。
考えれば考えるほど、由々しき事態に思えてくる。


そこでふと想う。
というか、今朝気付いたことだ。

俺は、感情表出の半減に関して本当に危機感を覚えているのか?と。


冒頭の事故が起きたその約1年後、
俺は「感情の完全放棄」ともいうべき状態に心身を置いていた。

今なら言える。
「感情の表出のオミット」は、感情放棄に対する布石であった、と。

どうせ、無表情にならざるを得なかったのだ。
人並みのアウトプット手段は無用の長物、というものである。


まぁそれからじっくり時間をかけ、徐々に感情が溜まるようになり、
表に溢れ出す様にもなった。
そうなれば、アウトプット手段の半分を失っている事実に
凹んだ「様な気になった」時期があるのも事実。


だが、今朝気付いてしまった。


「病は気から」という慣用句は真実を示しているが、
同時に
「気は病から」というのも真実なのである。

結局のところ、
「物事は全て、あるべきカタチに収まる」ということだ。

表出する手段を失った5割の感情は、決してどこかにとどまり続けている訳ではなく、
老廃物として、不随意に排泄されるのだ。

要は俺は、感情の5割を削減しているのである。


10割あるものを半分しか出せない(伝えられない)との焦りに似た想いは、
実に幻想であり、妄想であったと、ここにきて漸く気付いた次第。


長い間 不幸だと思っていたそれは、実はギフトであったかと、理解してしまった。
感情なんぞ、5割も残ってれば充分であるし、
実際のところ、感情を隠そうとすれば隠せるという事実は、有利でこそあれ決して不利にはならない。


とは云え、
きっと
伝えたい感情があるならば
俺はこれからも右側の顔面を使って、精一杯あらわすことだろう。

そして
伝えたくない相手には、左側の表情をお見せするに違いない。



どうやら、
新しい領域に足を踏み入れたらしい(´∀`)






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詮無きこと

哀しみを飲み込み

怒りを飲み込み

それらを消化して血管に流し込む。



だから
きっと
オイラの血液はドロドロだね(´∀`)

うは




 

「シンプル」と「雑」を混同するんじゃない。

思考を放棄することを「シンプルだ」と吐かれちゃ堪ったもんじゃない。

シンプルってのは結果なんだ。
考えぬいて、思考の限りを尽くして
その上で「贅肉をそぎ落として示す結果」が
シンプルってモンだ。

だから、雑な輩が「シンプル」を喧伝したところで
その言い草を聴けば、なんの説得力もない、と容易に知れる。

そーゆー輩に限って
「出来ない」と「しない」を混同する。
理解出来ないことは片っ端から「嫌い」としてしまう。
嗜好も価値観もあったモンじゃない。

脊髄反射的な感情をそのまま表明することも
そんな輩にとっては「シンプル」なんだろうな。
言いたいことを、言いたいように言う。
聞く側のことなんざお構いなしだ。

シンプルってのは
愚か者には荷が重かろうよ。
やめなよ。



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思い出すこと

我の囁きは


路傍の石ころのやうなもの。


拾い上げてみれば


ただの石ころではないやもしれぬ。


脈動と温度があるやもしれぬ。




しかし 眺め入るだけならば


単なる石ころのやうなもの。




 

脚力

脚を引っ張られても
全然構わないさ。

だってオイラには
引っ張る手を引き剥がす程度の脚力は備わっているもの。

「脚を引っ張らないでほしい」
なんて世迷い言を口にしても始まらない。
実際に引っ張る手は無数に存在するのだし
願ってみたところでそれが止むことは無い。

己の力で振り切るしかないだろう。
掴まれっ放しなのは自分が悪い。
少なくとも、
自分が「そんな脚力をもっていないこと」は
「他人のせい」ではない。

脚力ってのは腕力の三倍と言われている。
引き剥がせないことはないよ。
引っ張られることに甘んじてさえいなければ
寧ろ容易に引き剥がせるよ。



引っ張られるのが脚でホントに良かった。
耳たぶや髪とかだったら
簡単には引き剥がせないものね(´∀`)


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