ヤドリギ金子のブログ -848ページ目

低気圧

 私にとっての愛とは一方的な愛のことであり、応答のほとんどない、当然ながら交換はない、偏愛であり、したがって不可能性の愛のことである。Xを偏愛する私は、節度という徳を想起し友愛の関係に近づこうとするが、どうしても友愛のままであることを最後には拒絶してしまう。そんな時の私は今日の狂いかけた世間からするなら、断罪すらされるであろう変態者に過ぎない。しかし、自己対象化のラディカルな持続によって冷静を保持する訓練のために、友愛の偽装と偏愛への衝動のせめぎ合いの中で、半ば苦悩する自分をマゾヒスティックに楽しみながら、半ば悲しみながら、レッテル付けとしての画一的変態という様相をできるかぎり回避すべく自己分析を惜しみなく試みながら、私はXを「冷静に」偏愛する。Xへの愛を忘却できるものなら、その愛は偏愛ではない。忘れ去ろうとしても忘れられないから、「冷静でありながら」私は不可避にXを偏愛しているということになるのだろう。
 性懲りもない、粘着質の、私の見え透いた、時には無神経な、時には傲慢不遜な接近に対して、その滑稽さを冷笑し、仕方なくかすかに同情し、あるいは拒絶の結果がもたらす恐怖をほんの一瞬想像して危惧し、慎重に慎重に距離を測りながら、それでもXは優しく応答する。
 優しさにつけいってしまう自分に私は周到な警戒心を持たなければならない。それを自堕落な私の矜持としなければなるまい。Xは私にとってあまりにも壊れやすい結晶だから、近接してはならない対象なはずなのだが、その禁忌が逆にXへの近接への衝動を促してしまう。しかし、禁忌は禁忌であり、倫理は倫理であり、その護持は私の存在の正当性にとって不可欠なものである。葛藤を快楽に変換する装置を私は私の内部に埋め込まなければならない。なぜならば、その作業が今の私を私にするからだ。
 私の過去は「あの頃」の時点ですっかり停止しているのかもしれない。私の中のイメージはあの時から固定化され、定点で普遍化しているのだろう。あの眩しい夏の光はもう戻っては来ないだろう。微笑みは過去へ過去へと少しずつ遠ざかっていく。麗しのディスタンス!か・・・。人生の折り返し点を過ぎた私の内部世界には過去志向ばかりが蔓延し、未来志向はほとんどありえなくなりつつある。
 一方、Xにとっての世界は、それがたとえ衰亡のみが運命づけられたこの世界だとしても、未来志向の対象であるにちがいない。限りない出会いがこれからのXを待っているだろう。一方、私には限りない別ればかりが用意されるだろう。
 したがって、私を待つのはもしかすると哀しみばかりだ。しかし、ノスタルジーという言葉が含意するように、その哀しみに美しい時を意識的にそそぎ込むことはできるだろう。それは私自身の中で育った時間でしかないが、そこに私は後悔よりも歓びに近いものを感じるだろう。哀しみは歓びに反転する。これは倒錯だろうか?
 縮めようとしてもできるはずのない、補足できない距離が何から何まで厳然としてあるにもかかわらず、私は俗物であることを否定しようとしながら、実に簡単に誤解されることを承知で、独自の純粋さの在処を探索しながら、Xへの愛について考える。
 これは一つの物語を紡ぐことに似ている。しかし、これは伝達することから遠く離れた織物でしかない。それにもかかわらず、伝達不可能性も含めて、私はXにこうして伝えようとしている。これは絶対的な矛盾だ。矛盾を貫くことで同一性を保持しようとする記述だ。
「愛されることと愛することが出合いようもなく隔たる愛というものがある。」

朗読の方へ・・・・・③

いかなる発語がからくりへの拝跪を強制し得るというのか?
実は、これ、朗読という曲者は、安易に、あまりに造作なく、濁ることができる発語の、屠殺した後日談にすらならないのだ。真昼の街の無為な惨劇に絡めとられた人々の後日談をこそ想像するように、濁らない詩人よ、私に、私の矛盾の所在を教えてくれ。
祝祭でも呪詛でもない朗読の彼方へ連れて行ってくれ
子音に満ちた美しい言葉を濁音によって奪おうとした
かつての闇という闇をふたたびどよめかせる朗読の彼方へ
舌を早回しにし早回しにし
スキップさせて次へ、そのまた次へ
うらうらと舌がそよぐか?

金子光晴の言葉

「日本人の誇りなど、たいしたことではない。フランス人の誇りだって、中国人の誇りだって、そのとおりで、世界の国が、そんな誇りをめちゃめちゃにされたときでなければ、人間は平和を真剣に考えないのではないか」
「人間が国をしょってあがいているあいだ、平和などくるはずはなく、口先とはうらはらで、人間は、平和に耐えきれない動物なのではないか、とさえおもわれてくる」。