ヤドリギ金子のブログ -846ページ目

今年の8月のテレビ

騒がしい番組を避けるように、8月だから、終戦、いや、敗戦特集番組を観た。今年は例年以上に「元兵士を中心とする証言」を構成した番組が目立ったように思えた。なぜだろうか?たまたまだろうか?
 戦場の記憶、言葉にできない悲惨な記憶が語られるためには、60有余年が必要だった。『ショアー』や『ゆきゆきて神軍』等のドキュメンタリーに関して述べられた「表象不可能性」、それをギリギリで乗り越えようとする方法としての「証言」。言葉にしようとすると喉元に留まってしまう、澱のような真実を、語ろうとすることが困難な極限状況を、死者への苛烈な痛みを伴う真実を、カメラの前で語ること。オーラル・ヒストリーとしての歴史。
 「機が熟す」という言葉があるが、80歳を超える老人たちによる証言はおそらくこの言葉はあてはまるまい。死に近づいた人間に対して、彼の中の死者たちが、かつての戦友たちや殺害した現地人たちが、「こちら岸に来る前に語ってくれ」とささやいているのではないか?内面に留め置いた哀悼を哀悼としてそのまま後の世代に伝え残す委託を死者から与えられ、その委託に答えなければならないという良心の勇気を自己の死を前にしてようやく獲得できたのではないか?当然だが、証言にはほとんど自慢話やいさましい英雄談はなかった。だからこそそれは書かれた歴史とは異なる、いや、それ以上に生の事実に裏付けられた真実に満ちいていた。たとえ編集されたものであるにせよ、一つ一つの証言からにじみ出る長く深い煩悶・躊躇・苦悶の果てにはき出された言葉は、その場限りの無責任な言葉に溢れがちな私を沈黙させ、画面に釘付けにした。
 世代間倫理というが、彼らの遺言のような証言を私たちはどのように伝えていけば良いのだろうか?

入り込むこと

 金時鐘さんが『朝鮮詩集』を再訳した。一端手に取りながら、読まないまま放置していた。最近ようやくぽつりぽつり読み始めた。読み始めた当初は、岩波文庫の金素雲訳が頭にこびりついていたせいなのか、すんなりと再訳の世界に入っていけなかった。ところが、不思議なことに何度か読んでいると、金素雲訳が余計な修辞に満ちているように思えてきた。金素雲訳は「日本の詩」なのである。日本の叙情を偽装しようとしている不自然さが、再訳になじんでくると浮上してきた。読み始めた頃は逆だった。金時鐘氏の再訳への意志の背景を踏まえても、なかなか再訳になじめなかった。それが反転したのである。ここには翻訳とは言え「朝鮮の叙情」があるように思える。日本の詩の小さくまとまっていく、感傷に流れがちな湿っぽい叙情(金時鐘さんが「摂理による出会い」をした小野十三郎によるなら、これを「短歌的叙情」というようだ)が再訳では払拭されていると思ってしまうのは私の気のせいだろうか? 詩において「論理的」と言ったら誤解があるだろうが、装飾性をできるかぎりそぎ落とし、ロマンティックであろうとしないという意味で「論理的」である、いや、「大陸的」と言ってしまおうか?? 日本語になりきれない所に成立するからこそ「朝鮮の詩」なのだろうし、日本の詩に慣れた人間にとって「違和」や「抵抗」を感じるからこそ「朝鮮の叙情」なのだろう。
  金素雲は日本的叙情にあえて徹することで植民された朝鮮を生かそうとしたのだろう。彼の本意を知ろうともせず、日本の詩人達は彼の訳をあたかも「朝鮮の叙情」を見事に表しているかのように絶賛した。つまり、彼らには何の違和感もなかった。違和感が起こらないことに何も感じることはなかった。だからこそ、絶賛した。それが不自然きわまりないことに気づくことはなかった。それこそが残念なことに宗主国の典型である。支配者は支配していることに無自覚な時に最も支配者になる。
 私は再訳に他者を感じなければならない。そして、違和感を感じるまま受容しなければならない。

美しい画像を観つつ

 あの「赤いコーリャン」の監督が演出しているからか、壮大でダイナミックで鮮やかな色彩の画面が圧倒的なパワーで迫ってくる。美しい!しかし、こうして美しければ美しいほどこのイベントの醜さを想起してしまう。矛盾していないということは不自然であるということである。クーベルタンが自国の高揚のためにも提唱した、あたかもグローバリズムを否定するかのような(いや、むしろグローバリズムを国家にとって都合の良い方向にのみ誘導する)国民国家を強調するためにあるこのイベント。まさに中国はそのためにこそ悲願を実現した。それはそれですばらしいことなのかもしれない。しかし、国家のすばらしさの象徴としてこのイベントを実現するために、「臭い物には蓋」を徹底した。
 このイベントは、(過去のそれと同様?)開催国において進んでいる格差を隠蔽する。少数民族へのあまりに少ない配慮や弾圧が隠蔽される。様々なメディア規制は黙認される。
 問題がないということはすべてに問題が内在しているということと同義なのだ。
そんなことを呟きながら、茶の間で画像の美しさに圧倒されてしまう自分がいる。