職業、肩書、お金、家族あなたは何がほしいのか?

職業、肩書、お金、家族あなたは何がほしいのか?

社会人になってから10年で、上場・未上場企業と企業役員・社長業を経験したが現在無職。
たまには休むことも必要だ。信ずれば、道は拓くはず。いままでの経験を棚卸し、次に進むために、ブログを始める。

謙虚に、自分らしく、自分の生かす場を見つけるために書きます。

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今日、たまたまコンサル先の友人と話をした。もちろん、仕事の話もするのだが、年齢が近いせいか、いろんなことを話しする。
彼は、年齢は30代前半、学歴はさほどない、会社自体は3社目。大した会社ではないが、業界自体もけして恵まれた業界ではない。けれど、業績のいい会社の部長にまでなっている。彼は僕に言う、「役員になりたいんだよね。上場企業の、、、、」
僕は経験しているけど、それほどいいものではない。ポジション自体は目標にはなりえない。だから、僕も前置きとしては、「役員になりたいのではなくて、これをやりたいから役員になるじゃないの?」ということはいう。
でも、「役員になりたい」という気持ちはよくわかる。なぜなら、収入がちがう。実際にどんな仕事をするか否かは別として、対外的な見方も変わるし、そこには確かに満足感がある。

彼は単純に、今よりも成長を求めたいと思う人間だし、現在部長なので、その会社で部長よりも成長した証としてつけられる称号は「役員」。だから、より成長し、より大きな裁量のある場所ということで、「役員」という表現をしたんだと思う。

けれど、僕は何人もの「役員」の方と話をしたけど、役員と部長とはどう違う?のかなぁと思った。
会社は当然組織なので、指揮命令系統や役割分担の機能も果たすものである。
役割とポジションと報酬とがあまり一致しない例をよく見る。そういう意味で行くと、役職と報酬とはどの会社も連動するものの、役割・責任に関しては会社によってまちまちだというのが結論。

教科書的に肩書と序列、序列が上がれば給料もあがる。その原則はだれでも模倣可能なので、そういう世間一般的な役員のイメージが出来上がっているんだろうと思う。



NHKが「無縁社会」というNHKスペシャルを放送して2夜連続で見てしまった。

その中には、結構悲惨な人が出てきている。
①親の介護で気がついてみたら、自分の多くの時間が介護に消え、親が死んだころには、独身で結婚するような年齢ではなく、職もなく、頼れる人間が近くにいない。自分も病気をし今は生活保護と言う、50代の人

②もともとは、大企業のメーカーに勤めていたが、リストラされ、その後は派遣社員として、数年働いてきた。職場職場では友達もできたが、いざ不況になれば、正社員ではない派遣が真っ先に切り離される。不況で採用に応募した会社は70社以上にもなるが、1社も受からず、現在は無職で2年になる。と言う、30代前半の僕と同じような年齢の人。

③家庭に離婚などのの事情があり、定時制高校に通い、卒業もしたが仕事が見つからず、ホームレスになっていく人。
上記の3つに共通しているのは、だれに頼ればいいかわからず、同時に自分で生きていくことはできても孤独であり、社会に必要とされていないと思い「死にたい」とか、「生きる意味がわからない、みつからない」というようなことをいう。
僕は、この気持ちが全部わかるとは言わないけど、良く分かる。無職なのでなおさらだが、社会から僕は必要とされていないんじゃないか?とか思っちゃう。家族がいて、2歳の子供がいるので、その分は救われているが、もしも独身であれば、どう思うかな?と思うと、同じように喪失感でいっぱいになるような気がする。

人材派遣や人材教育を行うザ・アールの社長の奥谷女史はこれらを自己責任と一蹴していた。
たしかに、時代は変わり、社会が助けてくれるということは基本的になくなった。企業も終身雇用を辞め、社員教育すらを放棄し始めているので、企業に頼ることも得策でない。自分の人生は究極的には自分で守るしかないわけで、だからこそ自己責任というのは良くわかる気がするが、それではなしを終わりにするのはあまりにもひどいなと見ていて思った。
自己責任もあるけれど、社会のルール変更がおこっているんだから、それまで「日本人よこうあれ!」といっていたのを大きく変えたわけだから、それを自己責任ですと言われるのはちょっとなぁと思う。
もちろん、その中にはいろいろな政治体系があるわけなので、自己責任だからと切り捨てるやり方もOKなのだけど、それをやるのであれば、逆に政府や自治体に対して国民は自己責任で行きますので、税金・社会保険を払いませんがいいですか?とか、こんな国家転覆させちまえとかそういう権利も国民が持ちますがいいですよと認めなくては、自己責任を押し付けることはできないんじゃないか?と思うんだよね。

社会の問題であるが、たとえば、会社に置き換えても同じだと思う。労働基準法や社会保険法などがなかったとして、会社の経営は、一切失業や社会保険を負担する必要がなく、いつでも負担なく従業員を解雇できるような状況が存在しているとする。でもそんな理由もなく解雇でき、ベネフィットも与えない会社で人は働きたいと思うのだろうか?いつでも解雇されるリスクがあるのに、今の報酬・税金体系ではとてもじゃないが、僕は受けない。

自己責任を要求するのであれば、社会的な責任の範囲を明確にするべきだと思う。
今後たとえば、配偶者控除の制度がなくなるとする。現在の配偶者控除の仕組みは、配偶者に専業主婦でいた方いいよというインセンティブを与える制度であるが、逆にいえば、家事労働をする人間を確保することで社会的な安寧を保ちやすい、たとえば、子供の教育や引退世代の介護などを社会的な負担から家族的な負担にするとういう意味合いもあった。
社会的にはここ見てよ。だからこういうベネフィット与えるよという双務契約的なものだと思う。
現在、配偶者控除をなくすのであれば、それに対応するものをどう用意するかは社会的な責任のもとで議論すべきだろう。

さて、この無縁社会化に関しても同じように、自己責任だけでは、多分解決できない。解決しなくてもいいというのであれば、それはそれで、僕らが選んだ政治家が決断したんだから問題ないけど、それだけでは悲しすぎると思う。

自分も何かできないかと思った。
あまり気負いせずに、何かこういう人々の役に立つことができればと思う。
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手帳はビジネスマンにとっての必須アイテムになっているという。
しかし、僕は今までの人生でまともな手帳を持ったことがない。
手帳を持つ意味は、何なのか?といつも思ってしまう。世の中には、この手帳で成功したなんていう事例があるけど、本当なのかな?と思う。

「目標値とか、夢とかやりたいことを余白に書くんだ」なんてことを推奨することもあるようだけど、僕はそれでも手帳を持っていない。

スケジュール管理と住所録はほとんどPC。アウトルックからスタートしたが、現在はグーグルカレンダー。
会社でもグループウェアはグーグルなので、家でも仕事でもグーグルカレンダーを使っている。グーグルは携帯でも閲覧は可能。加えて、グーグルと携帯の予定帳のシンクロナイズも可能なので、

iphoneは持っていないので、どうかはわからないが、米国にいたときは、ブラックベリーを使っていて、アウトルックとシンクできた、これ以来ずっとこの方式でスケジュールは管理している。多くの人の住所録は網携帯になっているんじゃないか?と思う。だから、これだけスマートフォンが浸透すれば、スマートフォンで行う人が多いんじゃないかな?と思う。

しかし、しかし、手帳は手帳で非常に役に立つ。スケジュール管理と住所録、その他の情報検索に関してはPCや携帯で行えばいい。
しかし、僕も手帳を持っている。手帳といっても僕の場合は3年日記帳を使っている。使い方は、ジャーナルに近いけど、その日にあったこと、心情に訴えること、自分がそう思ったか?そして公にはできないことをそこに書いている。
自分は3年日記帳がも3冊目になっている。来年一年使ったら、新しいものになるのだが、現在使っている3年日記帳は使い始めて2年目。昨年の今、何をしていたのかがすぐ分かる。
それを見ながら、「おれは成長したなぁ」とか、「変わんないな」とか、いろいろ分かる。
それに、そういう定性的な情報は、なかなか大事。
実際に日記なので、髪切ったとか、病院いったとか、風邪引いたとか、スケジュール帳には書かないことも書いてあるので、自分のことを良く知るために、今の自分、過去の自分を知るにはもっとも最適なツールになると思っている。
それに、自分が生きた足跡を記していることにもなる。いがいと1年前何をしていたのか?が忘れてしまう。
に日漫然と過ごしてしまう。一日の終わりに、一日を振り返ることで、明日への予定の立て方も変わってくる。

すごくお勧め。

自分は、免許は持っているものの、車を所有していないし、最近車を運転したのも数カ月も前という状態。そんな僕であるが、ちょっと仕事が入り、最近少し自分なりに、自動車業界のことを整理していた。

自動車業界は非常にすそ野が広い業界だということはよく知られている。
通常、自動車メーカーを頂点に、部品製造業があり、その下に下請け孫請け。さらには部品製造に欠かせない金型メーカーや工作機械メーカー。ファクトリーオートメーション等の生産技術を支える企業もそこには存在する。
日本の全雇用の10%。輸出額の20%を稼ぎ出す業種だけに、巨大な生態系の様相を呈している。

一方、製造業としてフォーカスされることが多い自動車だが、僕は販売局面での生態系に非常に興味を持っている。
つまり、自動車がどんな形で付加価値を生んでいるかという点。
当然、自動車メーカーは作ったものが売れなければいけないわけで、販売するということは自動車メーカーにとっても非常に大事な局面であることは事実である。
それでは、販売の局面であるが、

新車販売、中古車の買い取り、オークション、仲介、自動車整備、レンタカー、リース、スクラップ廃棄業者、海外輸出業、中古車輸出、部品販売、自動車保険と、これまた非常にすそ野の広い産業となっている。

製造メーカーから出た後も、車という耐久消費財はビジネスの生態系を作っている。
新車が売れなければ、中古車が売れない。という循環がある。車が売れれば売れるほど、当然新車販売以下の生態系にも大きな影響が及ぶ。現在車が日本では売れない時代である。
だから、メーカーは海外での販売に非常に力を入れている。それでは、この新車販売以下の企業群は生態系はどうやってその衰退から逃れることができるのだろうか?
海外に行くという選択は基本的にとりにくい業界だ。どうやって、売上を伸ばし、利益を伸ばしていくことができるのか?非常に困難な状況に陥っている。

その中で、緩やかであるが市場が伸びている業界がある。
それは、レンタカー市場である。徐々に徐々に伸びている。本当にきずかないほどであるが、年率で2%とか3%とかで伸びている。
レンタカーという業種は、とても重要なことを示唆している。それは、車の所有から利用へという消費者の意識の変化がそこにあるということに他ならない。つまり、消費者は車がほしいわけではなく、モビリティがほしいだけだ。
つまりは、車のメーカーもしくは、販売店にとって、車という商品の代替物は、電車であり、航空機であり、タクシーであり、バスであり、自転車である。もしも「どこでもドア」のようなものがあればそれも代替物になる。
車にはステータスシンボルとしての商品価値もあったが、それも大いに薄れている。

ということで、レンタカーは車が売れないと言われる中では伸びている業種であり、需要のあるサービスである。
ゼロックスがコピー機を売ることから、コピー需要というそのものを販売したのと同様であり、カーシェア等レンタカー派生商品も同じ構造をとっている。トランクルームも同じ。

実際、都会にいる限り、所有コストとレンタカーの使用コストでは、使用コストの方が実際生活では効率がいい。
こういうものは、車に限らず、家電などでも当てはまらないことはない。
実際、パソコンなどただで手に入る。しかし、通信費は払わなければいけない。通信費さえ払えば、パソコンはただなのである。

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私は賛成 派!

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基本的には賛成。
今後の経営環境を考えると、どうやっても世界に出て行って戦わなければいけない。
今現在の対象市場がドメスティックだとしても、経営を維持し、雇用を維持するためには何らかの収入が必要でそれは縮小していく日本国内では難しいのが現実だ。

でも、一気に英語にするのはどうかな?と思う。
事実、ユニクロだって、楽天だって、ほとんど英語なんていらないはず。しかし、海外展開となると話しは大きく違う。特に、ユニクロ、楽天は事業モデルがグローカルにならざるを得ない。当然商品力やサービス力はここまで作り上げたモデルなので、通用はすると思う。しかし、キーファクターはユニクロに関しては店舗運営だし、楽天でもロイヤルカスタマーを如何に作ることである。これらは人海戦術的な側面がつよい。これらにかかわる人間の意思疎通を通じてベクトルを一つの方向性にもっていくことが非常に重要になるし、ユニクロにしても、楽天にしてもトップの強力なリーダーシップというものが経営の中での重要な要素になっている。

だから、これら業種において、市場を海外に求め自社のモデルをインストールしていこうと思うと、言語が大きな壁になる。加えて、現場の人間のベクトル合わせは言語というメディアを使わないと不可能。だから、そういう人材をもっと求めたいが、労働市場にはそんなに簡単に日本語と英語を行き来する大量の人間がいない。
だからこそ、そういう人材のさらなる創出を求めてこういう英語公用語を掲げることによって、全体のパイを増やし、事業運営に必要な人材を極力集めいようという試みをしたのだとおもう。

でも、日本の中でも優良企業がなぜこんな動きをするかといえば、自らの事業のこともあるだろうが、政治や日本の教育に対する不満というのがあり、間接的に政治的な発言になっているのではないか?と思う。

日本の教育は本当にどうなのかと思う。自分にも子供がいるが、やっぱりバイリンガルになって、世界でも活躍できる人間になってほしいと思うし、もっと日本を世界に広める人材になってほしいと思うが、親にいかんせん金がないので、難しい。けど、そんな状況でも教育にはお金をもっと使って、いい人材を育成するシステムは国家ビジョンとして掲げてほしいと思う。

資源がない国なのだ、技術と知恵とで勝負していくしかない日本なのだから、


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日経ビジネスに、三品 和広氏のコラムがある。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20101108/216989/

日本企業は、今危機にある。だからこそ、事業立地を見直す必要がある。
事業立地とは、「稼ぐセグメント」と「稼ぎ方」のことだと僕自身は解釈している。それを一般的にはイノベーションというのではないかと思う。

セーレン    染色  →自動車シート
セブン&アイ 量販店 →コンビニ
キャノン    カメラ  →コピー機
任天堂     トランプ →ゲーム機
ウシオ電気 白熱電球 →産業照明
トヨタ     織機    →自動車     

彼のいう「事業の転地」という表現の例が上記なのだが、どこまではいるかは、なかなか難しいのだけど、たとえばゼロックスがコピー機を売るのではなくて、コピーの使用枚数に応じて課金するモデルを採用したのは僕はイノベーションだと思うが、これらも「事業転地」に入るのかな?
まあ、いいんだけど、そういう事業モデルそのものを変えることを転地と言うらしい。

しかも、
「転地は企業の歴史からは非連続であり、多角化とは違って、本業の周辺分野ではない。」
と仰る。

上記の例の中で、本来の周辺分野でない部分にいった企業とはトヨタはそれに入るかな?と思うが、他は本業の周辺分野ではないか?と思う。

セーレンに関しては、もともとは布地の精錬染色の会社。下請け業態からの脱却だが、自動車のシート等の分野に進出できたのは、繊維加工に関するノウハウがあったからだ。
セブンアイについても、量販店で扱うものを新規業態の小売において展開した。同じ小売業だ、おそらく全く仕入先もない状態でのスタートではない。
キャノン:光学技術が核であり、そこからコピー機などのオフィス機器に進出
任天堂:トランプもファミコンも同じゲームではないか?
というように、核となるものがそこにあり、そこから生まれたものばかりである。

僕自身は一足飛びの「転地」はあり得ないと思っていて、セーレンも布地の精錬加工から、そこから生地のプリント。加工技術から自動車の強度等を高める技術が産まれて自動車部品に至っている。しかし、セーレンが自動車の部品としてエンジンを作ろうという発想にはならない。

逆にいえば、この企業のどこも、我々の持ちうるものの中で世界一や日本一になれるものはどこか?これを追求していった結果に新規での稼ぐ場所が産まれたというのが正しい言い方だと思う。

確かに、彼の言うように、新規の事業を開発する場合は、兼務でやらせては成功しないというのも事実ではあると思う。しかし、社内のノウハウを利用できないような状況では成功もおぼつかなかったはずである。
あくまでその会社には、その会社の中で生まれるべくして、新規事業や新製品が産まれるのであって、いきなりゼロがイチになるわけではない。
あくまでも、その会社の中にある顕在化していない強さを、新しい製品や市場に移転させることでできることであって、新市場と新製品を何もその分野において強みがないところから、同時に創造するわけではない。

ただ、三品氏の仰ることで非常に的を得ていることは
経営トップがある程度の長期で実行していかないと、それなりの事業ポートフォリオの構成変更を起こすことはできないという点。
事業構造を変更するには時間がかかる。なぜなら、ある程度成熟した企業組織は、現在の目標値を達成するためには最も効率の良い組織であるとは思うが、新しい市場や商品にとっては最適な構造を持っていないからである。
時には、雇用形態も違わなければいけないし、役職の権限分担(決裁金額など)も変更しなければ、新市場や新商品における競争力を勝ちえない可能性もある。
その時、一事業部長の判断だけではできないことがたくさんある。あくまでも経営トップが責任者という建前を持ち、トップの責任のもとで行わない限り、既存の組織の中では浮いた存在になり、既存組織の中野での基準で新規事業を判断される。

当然、既存事業の中で頑張ってくれる人が必要であるが、新規事業を打ち立てることもその会社にとっては重要事項の一つなのだ。だからこそ、会社の方向性として、新規事業が必要であることを社員に説いて回るのもトップだし、そこに協力を求めていくこともトップの仕事だ。
トップが長期的なビジョンを持たずに経営できる時宜というものもあり、その間の業績はきっと素晴らしいものだが、それは安定業績の中で新規の投資を行わないというリスクを取らないという長期的には最もリスクの高い洗濯をしたがゆえに、キャッシュがたまっていく減少であり、本当にその企業の永続性を担保するものかといえばけしてそうではないことは多い。
特に現在の銀行など、ビジョンが最も必要な分野であると思うが、銀行のトップがだれかは僕は知らない。

経営体系の本来的な「カマエ」を問われている時なのかもしれないと思う。

日テレニュースより
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群馬県桐生市で小学6年生の女子児童が自殺し、家族が「学校でのいじめが原因」と訴えている問題で、これまでいじめについて「把握できていない」と繰り返 していた学校側が8日、「いじめがあった」という調査結果をまとめました。しかし、いじめと自殺との因果関係については「はっきりわからない」としまし た。
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僕は、学校と教育委員会のあり方に憤りを感じる。
担任教師と学校の主張「いじめがあった」の認識に対して、食い違いがあることから群馬県警も動いた。
それを受けたのか、教育委員会は「いじめはあった」ことを認めた。しかし、因果関係はないという。テレビでは教育委員会の多分責任者だろう、彼は「担任には、いじめというものに対する感受性が足りない部分があった」というコメントまでしている。担任だけじゃもうどうにもならない状況(=学級崩壊)があったことは事実だろう????教育委員会の人たちは保身しか考えてないと思った。
教育委員会がどんな責任を負っているのか僕には分かんないけど、学校の当事者ではない。監督する立場であるならまず、監督すべきは学校内部のシステムだろう?
それが、どうして担任の個人の問題になるんだ?

因果関係はあるにきまってるじゃないか?
日本語が分かるなら、この論理矛盾ぐらい気付け、、、、ぼくには子供がいるが、100%群馬に会社から行けと言われても子供は連れてかない。

それくらい、身の毛もよだつ弁解だ。
こんな人を責任者にする限り、何にも進展しないよ。

校長も、教員委員会も即刻解散だ。
企業が苦境に立ち、再生という形で僕らが企業の中に入るとき、再生のプロと呼ばれる人は通常問題点を探しそこを埋めていくというアプローチをとる。
もちろん、どの企業にも強みがあれば弱みもあるのだから、弱点や問題点を把握し、それをつぶしていくことで事業が良くなっていくことがたくさんある。再生にかかる企業であればなおさらであり、業績や市場ポジションにおいて劣位に立つために苦境に立つ。だから、問題点はたくさんあるし、優良企業に比べれば弱みもある。

再生というフェーズにおいて、僕が大事だなと思うのは、この問題点を埋め合わせていくというギャップを埋めるアプローチは今すぐにでもやらなければいけない緊急度の高いものに限定するべきで、そのあとは強みを如何に利用し、市場の中で新しいポジションを獲得していくかというところにフォーカスを当てるべきだと思う。

財務的なこと=BS・CS上の問題点はすぐにやらなければいけない。当然、PLもBS・CSに影響してくるわけなので、その影響の範囲ではPLも規制を掛けなければいけない。

しかし、本当に利益を創出する筋肉質な事業体に持っていくとき、「攻め方」を考えなければいけない。売上が減る中リストラとコスト削減を繰り返し、利益をなんとか出していくことはできてもこれは「衰退」と同義になり非常にしんどい。
どこかで反転攻勢をかけなければいけない。
その時は、どこかで戦い方を変えていく必要がある。そもそも、同じ戦い方をして負けたのだから、違う獲物を狙うのか?違う場所で獲物を獲得するか?それとも獲物を捕らえる武器をかえるのか?などなどを行い、このままでは負け戦になる戦いの場所から少し勝てる場所に移動しなければいけない。
その時に、何を考えるかといえば、我々が競業他社に勝てる部分はどこか?それを起点に戦い方を変えていくことが必要だと僕は思う。
この強い点を起点に、そのほか周辺の機能を変更させていく、こういうシフトが非常に有効なケースが多かった。
多くの企業は競合他社がいて、どの企業も真似をするので、非常に似てくる。再生にかかる企業は軸がないまま他社の他社の真似をするため、ひずみが企業全体にでてくることがある。
つまり、他者が強い理由をたとえば商品だとすると、商品は簡単にまねできる。しかし、商品のコストだったり、物流体制だったり、プロモーション、販売手法等の点で、当該企業に会わないことがあり、中途半端にしかヒットせず、流行の恩恵は受けるが、他の自社商品が売れなくなったりもする。
そういったことを、物流体制だ。リピーターのフォローだと中途半端におこなっていくと、軸がなくなり、何の会社かが良くわかんなくなる。

結局、販売、物流、製造、開発はリンクしなければいけないが、その間がぎくしゃくするなんてことがとっても多い。
それぞれの部署は多種多様な要求にこたえなければいけないので、疲弊し、それでも売上が伸びなければ不満もたまり、社内は沈滞していく。

だから、当社が他社に勝てる部分を探し、そこに合わせるようにすべての機能を会わせていくようにする。
そういうアプローチがなかなか取れる企業はない。
なぜなら、なにかをやめることに対して、責任の所存が明らかになっていない企業だからこそ、機能や扱うものも複雑になってなんとかやりくりしている状況になる。
ある程度の会社になれば、何もしないで衰退ということはあまりない。いろんな手を打ちあがき、そして屋上屋を重ねるような形になるケースがおおい。しかし、足りないのはマネジメントであり、リーダーシップ。こういう危機の状況こそ、トップマネジメントの力が重要なのだ。

問題点は直すのではなく、切り離し。強い部分をさらに強くすることで、他の部分は粗削りでもお客様の支持を得られる分野を作り上げていく。そういうアプロ―チが、再生では大事だと思う
このドラマを見ていて、やっぱり今の日本は平和であることが良くわかった。日本がいかに豊かで、如何に素晴らしい国であり、今のアメリカが如何に平和で、豊かであるかが良くわかる。

日本とは何か、日本人とは何か? 真正面から取り組んでいるようで、見過ごしてきたように思う。

Japanese Americanの人を僕は知り合いには一人いる。けれど、そういう過去を知らずに過ごしてきたし、僕も過ごしていた。

日系アメリカ人の物語は、山崎豊子氏の
二つの祖国〈上〉 (新潮文庫)/山崎 豊子
¥780
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が非常に記憶に残っている。これを自分は日本で読んだ、そういう日本人もいるんだということを初めて知った。
その時に、自分は日本で、日本に生まれ、日本語が話すのが当たり前で、帰る場所があるということがこんなにも幸せなことなのか?と思い知らされた。

これらの物語は、国、家族というところに集中するのだけど、人間は国家とかの後ろ盾がなくても自由でいられるわけではない。国というものがあって初めて、権利とか自由とかそういうものを謳歌できるそれが現在の法治国家の仕組みなのだ。
でも、例外も存在する。このJaoanese American 99年の愛でもあるように、日系米国人2世は米国籍を取れるけど、1世は取れなかったりする。同じ山崎豊子氏の「大地の子」の中国残留日本人孤児もそうだが、通常の国籍という概念から外れてしまう。そうなると、彼らを支えているものが、家族である。
自分にはそういう境遇がないので、「家族」を強く意識することはなかった。だから、家族というものを軽く扱ったり、地元をでて親元を離れたり、そして結婚して家族を作ることっていうことがどんなことかは分からなかった。

今回ドラマを見て、家族を守るために犠牲になる人が出てくる。
現在の日本では、子供が少ない。子供が自分たちの生活を制約する。確かにそれも分かるのだが、家族しか守れないことがある。

僕の尊敬する人間がいる。
彼は、在日韓国人である。彼はそれを誇りにしている。
彼は、日本でやはり差別されてきた歴史を語る。僕はそれを知らない。
しかし、それは存在した。
彼は、守るべきものをはっきりと言い放つ、家族だ。
だから、彼は冷たく見える。日本に育ち、日本の友達もたくさんいる。しかし、何かあれば日本人ではなく、自分の家族を守る。血がつながって、自分をこの世に存在させてくれた韓国人を守る。

それを僕は悪いとはいえない。それもありだと思う。

一方で、国籍も国境も命に関係ないと活動している人がいる。それらの人もとても立派だと思う。

けれど、自分の家族を守るために、他の国籍や民族ではなく、同族・家族を優先させること、これもわかる。

良くないのは中途半端でいることなのかもしれない。

テレビを見ていて、所ジョージの番組なのだけど、とっても面白い内容だった。
タイトルにもあるように、高校の吹奏楽の大会の特集。

音楽に関しては全く音痴で不案内だけど、番組を見ていて、こういう青春もあるんだなぁととても思った。
僕は高校時代はスポーツをやっていた、非常に男くさいラグビーなるスポーツをやっていて、そこにはそこに青春があったが、吹奏楽=ブラスバンド(いっしょなのかな?)に青春を掛ける高校生たちは、とても輝いていた。

音楽にも当然に努力が必要なのだろうが、肉体的な苦しさはスポーツよりも少ないし、汗をかくわけでもないし、なんて高校生のときには思っていた。
番組を見ていて、練習でうまくできなくて、涙を流す高校生がたくさんいた。
僕も、ラグビーの合宿で菅平にいって、終わった時には泣いたことを覚えているが、通常の練習で、「自分は駄目だ、もっと頑張らねば」なんて思って泣いたことは一度もない。だから、まじめに吹奏楽に打ち込む人々を見て、なんか自分を見つめなおす機会を得た。
「今お前はどこまで頑張っているのか?」
今はダメダメ。。。。。

そして、吹奏楽をする人々は、普門館を目指して練習に励む。

だれもやってことがない楽曲を選び挑戦する高校。
この生徒たちはだれもがやったことがない曲のため、イメージ作りを部員全員で作り、この小節はこういうイメージ。ラストはこう持っていく、なんてことを真剣に議論して決めていった。
こうやって本気で、曲のイメージ作り、メッセージ作りをしているなんてすごいと思った。ビジネスでさえ、商品を伝えるメッセージを作るために、昨年と同じなんてケースが多かったりするのに、高校生でも考えてみれば当たり前のことをしていけば、やっぱりいいものが産まれる。

同じように、彼らはだれのために練習しているのか?
当然に、自分たちのためでもあるが、音楽を伝えたい相手がいるのだ。
それは先輩のケースも、自分の両親のために、今まで自分たちを成長させてくれた先生のため。それぞれメッセージを届けたい相手がそこにはいるのだ。

ここまでして、僕は高校時代ラグビーの試合展開を考えたことがないし、勝った方が気持ちがいいからという理由でしか、練習なんてやってなかったなと思った。
だから、高校の時、期待されながらも、決勝にいけず、3位決定戦でも負けたのだ。