ご自由にご解釈下さい | 文武両道を目指す!~ペンは剣より強し~

文武両道を目指す!~ペンは剣より強し~

先代の白頭山は格闘家ですが、勝手に二代目を襲名した白頭山は文筆で勝負します。

犯罪率調査に行き詰まり、最近は何故か哲学書を読んでいます。

現在読んでいるのは、ショーペンハウエル著(細谷貞雄訳)である「知性について」(岩波書店 ISBN4-00-336323-X)という本です。

ゆっくり読み進めてます。


その中で、興味深い記述があったので、紹介しようと思います。

表題の通り、読まれた上でご自由にご解釈下さい。

僕の認識の押し付けは避けておこうとおもいます。



【pp.44-46を転載、漢字や仮名は原文まま】

 理論的な問題についての討論・論争は、それに加わっている双方にとっては、彼らがもっている思想を訂正したり確証したり、あるいはまた新しい思想を呼びおこしたりするものであるから、疑いもなく大いに有益なものでありうる。それは、いわば二つの頭脳が摩擦したり衝突したりするようなもので、しばしば火花を散らすことがあるが、しかしまた、力のまさったものは無傷で勝ちほこったひびきのみを発するのに、力の劣ったものはしばしばつらい目を見るという点でも、物体の衝突に似かよっている。この点を考慮すると、双方の討論者が知識においても、才気や機敏さにおいても、すくなくともほぼ匹敵し合うということが、論争のための一要件である。もし一方が知識において欠けるところがあるならば、彼は水準に達していないので、そのために、相手の議論についていくことができない。彼はこの戦いでは、いわば土俵のそとに立っているわけである。さらに、彼が才気や機敏さにおいて欠けるところがあるならば、まもなく彼の心頭に怒気が発してきて、それが次第に彼をありとあらゆる討論中の不正直や言いのがれや難くせなどへ、そしてこれらが摘発されると、暴力へまで誘いこむであろう。

 だからして、まず第一に、好敵手だけが馬上競技に参加する資格を認められたように、学者は無学者と討論すべきではない。なぜなら、彼は無学者を相手にして彼の最良の論法を用いることができない。彼らには、それを理解し考量するための知識が欠けているからである。この不都合を無視して、なおも彼らに判らせようと試みても、たいていは失敗するであろう。それどころか、彼らの粗悪な反対論法によって、彼らに劣らず無知な聴衆たちは、彼らの言い分の方に理があるように思いこむことにもなるであろう。それゆえに、ゲーテは言っている。

 「どのような時にもせよ、

  異を立てようという気になるな。

  無知の人と争えば、

  賢者も無知に沈むのだから」(『西東詩集』箴言の書二七番)

 しかし、論敵に才気や機敏さが欠けている場合には、彼が真理と学習への誠実な努力によってこの欠陥を補ってでもいれば別であるが、さもなければもっと始末のわるいことになる。なぜかというと、彼はまもなく、自分がもっとも深い急所を傷つけられたと感じはじめる。そうなると、彼を相手にする人は、自分の論敵がもはや知性の人ではなく、人間存在の根たる彼の意志であって、それが手段をえらばずただ勝利を占めることのみをめがけているということに、ただちに気付くであろう。こうして、かような論敵の治世は、あらゆる種類の逃げ道や小細工や不正直だけに目をつけ、そしてやがてそこから追いだされると、ついには暴力沙汰にまで手をだすことになるだろう。それというのも、なんとかして自分の劣等感のとりかえしをつけ、論争者たちの身分境遇に応じて、場合によっては精神の戦いを体力の戦いにもちこみ、せめてここで自分に有利な機会を期待しようということになるからである。この点を考慮すると、討論のための第二の心得として、融通のきかない知性の持ち主を相手にして討論すべきではないという規則がでてくる。

 ここまで言えば、論争の相手として付き合える人はさほど多くない、ということが判るであろう。そして実際のところ、われわれが本当に討論できる相手というものは、実は例外にぞくするほどわずかな人物なのである。これに反して、普通日常の人々は、誰かが彼らと同じ意見でないということだけでも、すぐにそれを悪意にとる。本当ならば、彼らの方こそ、誰でもが彼らに賛成できるように、自分自身の意見を工夫してもよかりそうなものなのに。実際はそうではないから、彼らと論争してみても、たとえ彼らが上述の「愚者の最終手段」に訴えるほどにならなくても、たいていは不愉快な思いをさせられるだけである。それは、論争中に、彼らの知的無能力にわずらわされるだけでなく、まもなく彼らの道徳的劣等さをみせつけられることになるからである。

 すなわち、彼らの論争の運び方の中にみえる度々の不正直さの中に、この道徳的劣等さが現れてくるであろう。彼らが何とかして言い分を通そうとして用いる言い逃れや小細工や難くせは、きわめて数多くさまざまであるが、しかしそれらは規則的にくりかえされるものであるから、

(中略)

 こうして、ここに本格的な論争弁証学が成立したわけである。