父をおくる (その1) | Blessing Wind ことほぎ

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アドバンスカラーセラピスト、シンギングボウル・サウンドアルケミスト、LIFE Balanceアドバイザー 、ことほぎです。
13の月の暦、瞑想、ヨガ、呼吸法、アーユルヴェーダ。さまざまな学びと日々の出来事を記しています。ときどきSMAP(または新しい地図)。


これは3年前の夏、2018年8月7日の糸島(福岡)の海。


ほんの数日の帰省でしたが、母のお墓まいり(南蔵院さん)をしたり友人と会ったり…短い夏休みを福岡で過ごしました。

たしか2泊ほど姉宅に世話になり、近くの海までドライブに出かけたときの写真です。


父も一緒に、素敵なお店でお昼ご飯を食べたあとに眺めの良いカフェに立ち寄りました。


暑いけれど爽やかな日でした。


私にとっては、この日が父とちゃんと会って話せた最後の日ということになります。


穏やかな笑顔の父の写真もあり、私と二人のショットも一枚残っています。

私が撮った姉と父のツーショット(後ろ姿)もカメラロールにはあって、それを眺めているとなんとも言えない気持ちになってしまいます。


翌年の2019年は福岡には一度も帰省できず、2020年の4月に福岡でシンギングボウル瞑想会をしようと企画していたもののコロナウィルス蔓延により取りやめになってからは、帰福の計画すら立てられずじまい…でした。


その後も父とは電話で時々話していましたが、実はそれも去年の12月末が最後だったと思います。


2009年に母が亡くなって以来、当初は認知症というよりむしろ「老人性精神疾患」であると診断された父は、数年に一度ドカンと精神錯乱状態に陥るようになり、とても一言では言い表せないような…まるで小説のような出来事(事件といってもおかしくないこと)を沢山巻き起こし、本人も家族もその都度、大層消耗したのでした。


その、ドカンとくる波の予兆を感じるような電話が去年の暮れだったために(これはしばらくまともに話せないだろうなと直感して)、姉から父の様子を知らせてもらいつつ様子を見守っていた年明け。

父がまた、姉宅の近くにある病院の精神病棟に入院したと知らせがありました。


しばらくして退院できたとしても、もう一緒に暮らすのは限界…という姉の言葉や気持ちは痛いほどわかっていたので、そうなった場合の施設を探しておく…との連絡が来た時に「(母が亡くなってから)いままで10年も父と一緒に暮らしてくれてありがとう」と返事をし、そして実際に父が介護付きマンションに入居したのが4月中旬。


その時点ではまだ精神的にすっかり落ち着いたわけではなく、姉夫婦だけでなく施設の方にも怒りの感情をぶつけたり、認知症も一層進んだために会話も支離滅裂になっているとのことでした。


そうこうするうち世の中はまたどんどん何度目かのコロナの波に襲われ、福岡は5月初旬に緊急事態宣言が発令され(千葉も蔓延防止措置)、帰るに帰れず。


少なくとも身体は健康だと聞いていたのでその点は安心していて、父の気持ちが落ち着くのを待とう、そして(いつになるか不明だけど)ワクチンを受けて福岡に帰ろう、と考えていました。


5月15日(土)、職場の昼休みにふと思い立って姉にラインをしたところ「最近だいぶ穏やかになってるから電話してあげて」とのこと。

とてもホッとして「なら明日にでもかけてみるね!」と返事をし、今はどんな睡眠リズムかわからないけど大河ドラマが始まる前の時間帯ならちょうど起きてるかなぁ?などと考えて仕事に戻りました。


翌16日。

姉から「お父さんに電話する前に連絡ちょうだい」と知らせが入りました。


なんだろうと思いながら電話すると「(入居した

ばかりの)部屋のベッドからどうも転落したらしく、肋骨が折れてしまった」「救急車で病院に運んだが命に別状はなく意識もはっきりしていて会話もできる」「(救急病院に)入院する際、万一のときの延命措置をどうするか病院側に確認された」「もともと父は不自然な延命を望む人ではなく、(姉としても)それは不要だとサインするつもりだがそれで良いか」「いますぐどうこうというのではない、ただ歳が歳なので入院の際には家族間の意思確認が必要」とのことでした…。


あまりの急展開、情報過多、自分の気持ちの収拾のつかなさに絶句。


今は、父は病院にいて。

でも意識があって話もできる。

ただ、電話はもちこめないから私とは話せない。


そのとき、いろいろな思いが巡る中で「なんで昨日のうちにさっさと電話しなかったんだろう」「でもこれが最後というわけではなかろうし」「お年寄りは骨折をきっかけに弱ってしまうという話はよく耳にする」「延命措置…そりゃ、お父さんはそういうことを望むタイプじゃないけど…今この場ですぐに返事をしないといけないのだろうか」「だけど私が躊躇していたら姉を困らせる」「これまでも厳しい判断や現実的な対応をすべて姉と義兄に任せっぱなしだったのに」「でも、でも、でも…」渦巻く感情。


数分、姉と会話をしながら頭の中が忙しく感情が波打ち、返事をしなきゃ返事をしなきゃと自分を叱咤して…「はい、私もそれでいいと思います。不自然な延命はしなくていいです。」そう答えました。


このまま会えない、喋れない…だったらどうしよう。

いやでも父はもともと身体が強く長命の家系でもあり、会話もできるなら大丈夫だろう。

良くなることを信じていよう…。


電話を切ったあと、自分にこんなふうに言い聞かせていました。


姉は時々知らせをくれて(実は姉もコロナ禍で入院後の面会はできなかったのですが…)、当初貧血が激しくて、しばらく輸血やブドウ糖の点滴をしたり酸素吸入もしていたが少しずつ持ち直し、ここ数日は流動食を取れるようにもなっている…と聞いたのが6月初め。


どうやら最悪の状況は脱したのだと胸をなでおろしつつ、姉も一向に面会できない状況に(父の孤独を想像してしまい)少ながらずショックを受け、とにかく少しずつでも快方に向かいますようにと祈ることしかできませんでした。


そのまま横ばい状態が続いていたのですが。


6月28日に「呼吸が前より苦しくなっていると病院から電話がきた」と姉から連絡があり…。


…そこからのことを、改めて気持ちを整理しながら次のブログに書こうと思います。