神宮球場
その日も神宮は雨だった。
不思議とこの球場は雨が多い。そしてなぜかよく似合う。
初めてこの球場に行ったのはいつだろう。。
一生懸命思い出してみたが、おそらく大学で上京してきて数年経った頃だと記憶しているので、かれこれ15年くらいは前になると思う。
今でこそこの球場を本拠地とする東京ヤクルトスワローズを熱心に応援するファンとなってしまったが、当時は全然ヤクルトファンではなかった。
悪い印象はまったくなかったけど、とりたてて贔屓にしていたわけでもない。
ただ、父親の影響で野球自体は小さい頃からとても好きで、Jリーグの創成期にサッカーブームが来た時も僕は野球中継を見ていた。
家族で外食した帰りの車の中なんかで聞くラジオの野球中継は独特の雰囲気があって、そのせいか今でもたまにラジオで野球中継を聞くとほんの少し郷愁感を覚えてとても心地良い。
この感覚は、僕と同世代か少し前の世代の人にはわかってもらえるのではないかと思う。(どうですかね?)
ちなみに僕が18年間生まれ育った福岡は、言わずもがな現在この世の春を謳歌する最強球団の一つである福岡ソフトバンクホークスの本拠地である。
ではなぜ現在ヤクルトのファンクラブ(しかもプラチナ会員)にまで入り、年に数十試合も神宮に足を運ぶ熱心なヤクルトファンなのか、と賢明な読者からすかさず突っ込みが聞こえてきそうなので、先手を打って言い訳しておこう。
まず、話は約四半世紀前に遡る。
知らない人も多いかもしれないが、実は僕が小学校低学年の頃まで、地元福岡をフランチャイズとする球団は無かった。
1989年に九州では飛ぶ鳥を落とす勢い(ホークスだけに紛らわしいか)だったスーパーのダイエーが、それまで大阪を本拠地としていた南海ホークスを買収して現在のソフトバンクホークスの前身、ダイエーホークスが誕生した。
それまでは、以前西鉄ライオンズという球団が福岡を本拠地としていた名残りで、多くの福岡県人が西武ファンだった。(はずだと記憶している。)
街では多くの少年達が手塚治虫氏により描かれたライオンの青い野球帽をかぶっていた。
*西鉄ライオンズは、今調べてみると1951年~1972年までで、その後太平洋クラブライオンズやらクラウンライターライオンズやら形態を変えて1979年から西武ライオンズになった。らしい。(ぎりぎり生まれる前なので知らなかった)
今でもなぜかこのことについてはよく覚えているが、この1989年のダイエーホークス誕生時に、福岡ではちょっとした宗教戦争が勃発した。
それまで博多っ子はみんなで仲良くパリーグは西武、セリーグは巨人を応援しておこうみたいな雰囲気で割と平和に野球に接していたのが、この日を境に福岡は割れた。
この1989年のダイエーホークス発足の変は、福岡においては歴史的な事件だった。
桶狭間の戦い、本能寺の変、関ヶ原の戦い、大坂夏の陣、大政奉還に匹敵する歴史的転機といっても過言ではないだろう。いや、ちょっと過言かもしれない。
福岡県民は、新規ダイエーホークス鞍替え組と西武ライオンズファン残留組に大きく二分されたのだ。
各教室内、会社内、向かいのホーム、路地裏の窓、、、
天神、中洲、博多駅、親不孝通り、警固公園、さらには旅先の店でも新聞の隅でも争いは続いた。
血で血を洗う戦いが始まり、至る所で民族紛争が繰り広げられたのだ。
鞍替え組(+それまでの無党派層)と残留組は、大体7:3か8:2くらいの割合(当時小学生の筆者感覚調べ)だったと思う。
残念なことに我が家においてもこの争いで国が二つに割れた。
そもそもピアノを弾いたり本を読んだりしていた母と兄は野球にまったく興味がない。
民族紛争だ歴史的転機などと言っておいてなんだが、野球に興味がない人にとってこのニュースは昨日の天気予報くらいどうでもいいネタである。
つまりは、あろうことか父親と僕とで宗派が割れてしまったのだ。
当時の僕の感覚では、どんな理由があれそれまで熱心に応援してきたチームをある日を境に突然見放すなんてできるわけがない。
ましてやホークスはライオンズと同じパリーグだ。
当時、森監督のもと黄金時代を迎えていた西武は本当に強かった。
石毛、秋山、清原、デストラーデ、辻、伊東、東尾、郭、松沼、渡辺久、工藤、、、いまでもすらすら当時の主力の名前が出てくるくらい強くて魅力的なチームだった。
しかし親父の言い分では、自分が生まれ育った地に待望の球団がやって来たのだから、応援しない理由がないだろう、というものだった。
気持ちはわからないでもない。でもこればかりは理屈ではなく感情の問題だ。
僕は隠れキリシタンさながら、ホークス一色となった福岡の地で謎に埼玉西武ライオンズを応援し続けた。
これを機に、しばらく福岡でこの2球団の直接対決があった際はちょっと独特の雰囲気があったように思う。(福岡ドームができる前は平和台球場という屋外球場があって、年に一度くらい野球を観に行くのはそれはそれは楽しみだった。)
ずいぶん長い言い訳になってしまったが、このような経緯により、律儀な僕はこの時にダイエーホークスのファンにならなかったことで、その後もソフトバンクのファンにもなることもなかったという訳だ。
ここで容易に想像される次の突っ込みに対して先回りして弁明しておく。
ではなぜそこまで律儀だった少年は、現在順調にライオンズファンのおっさんになっていないのか?
そしてどこから突然東京ヤクルトスワローズが出てくるのか?
すべて正直に白状しよう。
当時、御恩と奉公さながら忠実に忠実に西武ファンを貫いた少年時代の筆者だが、その後訪れる西武ライオンズのチーム力の陰りや自身の大学受験、上京生活など周囲を取り巻く環境の劇的変化等により、ライオンズに、いや野球そのものから遠ざかっていた時期があったのだ。
そもそもライオンズを応援していたのも、物心ついた時に気づけば周りに西武ファンが多かったことと、とにかく強かったからという理由なのだから仕方がない。
(これを一般的には開き直りと言う。)
なんで謝罪する必要があるかわからないが、とりあえず許して欲しい。
話を神宮に戻そう。
なんだかんだで上京後は野球からしばらく遠ざかり、気が付くと贔屓にしている球団もなく、何となくスポーツニュースで結果を目にするくらいの日々を送っていた。
ただ、野球自体は元々好きだったこともあり、数年に一度くらい東京で野球を観戦する機会があり、その時は神宮球場に観戦に行っていた。
余談だが、これこそ本当に宗教上の理由で東京ドームに観戦に行くという選択肢は無い。
先ほど民族紛争などと書いたが、それとは別問題で我が家は昔から筋金入りのアンチ読売で、ふとしたボタンの掛け違いにより親子でパリーグの応援する球団は違えど、生まれてこの方一貫して読売嫌悪の教育方針にブレはなかった。
その点においては、僕と父親に一切の絆の綻びは無かった。
父親が自分の人生の最大の汚点であったかのように語っていたのだが、元々子供の頃は、王や長嶋が国民的スターであった時代大抵の子供がそうであったように、巨人ファンだったらしい。
今でこそ過去の栄光にすがった自意識過剰の大正義面をした常敗球団になり下がってしまったが、紀元前くらい大昔は国民的な人気球団だったようだ(棒読み)。
客観的に見ても、老害の権化ともいうべき某オーナー(まだ元気みたいですね)を中心とした傍若無人な振舞い、金と権力にまみれた数々の癒着やルール無視の密約、金満体質が招く見苦しい補強の失敗と選手の使い捨て等、多くのファン離れを必然的に起こす要因がこの球団には無数にあった。
ついに夜7時からの専売特許だった地上波での野球中継を目にすることも無くなったが、偉そうなOBとジャニーズが自己満足的に公共の電波ではしゃぐだけの番組を世間は必要としなかったわけだ。これは自業自得だろう。
我が家ではGが負けている時だけ野球中継を見ることが許され、視聴者としての貢献を拒否する為、イニング間のCMの時間は即NHKに切り替えられた。
僕はいまだにこの教義を忠実に守り、東京ドーム敷地内のテナントでは一銭も使わないし、見苦しい橙色の集団と極力同じ空気を吸いたくないので水道橋近辺では息を止めて歩く。リモコンの4chは瞬間接着剤で凍結しているので視聴も不可能だがまったく支障はないし、今後も見る予定は一切ない。
ちなみにアンチ読売の大先輩である父親は、敵意のレベルが上がりすぎて、ついには昇華してある時期から「無視」という解脱とも言えるスタンスを取るようになっていった。
僕はまだこの域には達していない。
(しかし先日Gの13連敗の時、嬉しそうに覚えたてのメールを送ってきたので、さぞかし嬉しかったのだろう。)
また話が逸れてしまったが、大人になり東京生活でふとしたきっかけで神宮球場に訪れて以来、徐々にこの球場へ足を運ぶ間隔が少しずつ狭まっていくことになる。
そう、この球場で野球を見ることが無条件に楽しかったのだ。
(この感覚は、そうだ。あの平和台球場の時のあの感じだ!)
屋外球場なので雨が降ったら濡れるし、夏はとにかく暑くて冬はけっこう寒い。
当たり前だ。悪天候だと当日中止になることもしばしばあり、開催の有無も当日直前まで読めない。ドーム球場が主流となった現在、もはやここは完全に昭和に取り残されている。
でも本来、野球とはそういうものだったはずだ。
神宮には、ドーム球場で空調管理の元、ある意味快適にシステム化された興行としての近代の野球にはない、純朴なものがあった。
僕は野球の楽しさを、野球に感じていた少年時代の胸の鼓動を、神宮球場によって十年以上ぶりに喚起されていた。
昔は予告先発なんて無くて、当日球場に行って発表される先発に両チームのファンは歓声をあげたり悲鳴をあげたりしていた。
少年たちは(数)年に一度の野球観戦に何日も前から胸の高鳴りをおさえ、試合当日はみんなグローブを片手にホームランボールを本気でキャッチしようとわくわくしていた。
(昔は今のようにファールボールはもらえなくて、没収されていた。)
生で見るプロ野球選手はみんな普段見るよりも大きくて、プロのピッチャーの投げる球はどんなに凡庸な選手でもとてつもなく速かった。
球場で野球を観ていると平凡な外野フライでも打った瞬間はホームランに見え、現地の観客は外野フライでも興奮する。スタンドから見える選手達はいつもテレビで見ているよりもずっと小さいけれど、その時間は確かに非日常で特別なイベントだった。
野球はきっと本来そういうものだったはずだ。
それを神宮球場は僕に思い出させてくれた。
奇しくも現在同じ東京を本拠地とする球団は2つある。
先述の某G球団と、東京ヤクルトスワローズである。何もかもがあまりに対照的なチームだが、神宮に魅せられた僕は必然的にヤクルトを応援するようになる。
昔は関根監督という好々爺の象徴みたいなおじいちゃんが、ヤクルトがいくら負けても少しだけ困ったような顔をして、でも平和な顔でベンチで佇んでいたのが印象的だった。
その後の野村監督が掲げたID野球は革命的で、古田敦也との師弟コンビによる黄金期は魅力的なチームだった。
池山や石井、内藤とか高津といった個性的な選手もよく覚えている。
(ちなみにこの池山という選手ほど気持ちのいい三振をする打者を後にも先にも僕は見たことがない。楽天のコーチなんか辞めて早く帰ってきて欲しい。)
2015年に間違ってリーグ優勝したけれど、基本的にヤクルトは弱い。。
でも、神宮に魅せられてこの球場に足を運ぶに連れ、僕はその弱いヤクルトを懸命に応援する健気で辛抱強いヤクルトファンのこともまた好きになっていった。
まず、雲ひとつないどんなに晴れた日でもヤクルトファンはみんな傘を懐に忍ばせ、いそいそと信濃町やら外苑前あたりから神宮球場に向かう。
この時点で挙動不審なのだが、点が入るとみな一斉にごそごそと懐刀ごとく傘を取り出し、東京音頭というこの世で最も能天気な歌に合わせて傘を振るのだ。
極端に言うと、仮に7対0でその試合敗れていても、山田哲人が一本ソロホームランでも打とうものなら気持ちよく東京音頭を歌って傘を振って嫌なことは全部忘れてしまう。
我が東京ヤクルトスワローズは、去年5位で今年はぶっちぎりの最下位独走の状態だが、なぜか観客動員数は12球団一伸びているらしい。
相手チームが広島や阪神の際にビジター席が埋まることも大きな要因だろうけど、最近は優勝した2015年よりも一塁側の席も目に見えて人が増えている。
プロの世界なので当事者達は結果にこだわって欲しいけれど、ファンは勝敗だけでなくひたむきな姿を失わないでもらえれば、いつまでも声を枯らして応援する。
みんなこの球場で見る夕焼けの美しさや、ビールの美味しさ、そして何より野球の楽しさを肌で感じるのだろう。
人間と同じで、苦しい時期ほどその愛情は試されるのだと思う。
とにかく勝敗にこだわるのも、どんな状態でもひたすら辛抱強く応援し続けるのも、熱心な1ファンとしてのそれぞれの在り方だと思う。
僕は神宮球場が少年の心を思い出させてくれたことに感謝しているし、スワローズファンの健気な姿、そして山田哲人が僕らのヒーローでいてくれるだけで充分だ。
大げさな表現ではなく、ほんの少し人生に彩りを与えてくれたと思う。
さあ、次の神宮が今から楽しみだ。
(といいつつ負けるんだろうなぁ・・・)
スクリーンに映る都会の風景が好きだ。
スクリーンに映る都会の風景が好きだ。
この場合、(申し訳ないが)完全に東京を想定していて、
断然テレビよりも映画館がいい。
「いい」というよりこの二点はもはや必須事項といってもいい。
深夜なら尚いいし、そしてなぜか(本当になぜか)その光景はアニメの中だとさらに琴線に触れてくる。
一年以上更新を滞らせ突然何を言い出すのかと思う人がいるかもしれないが、
当ブログの最大にして唯一の長所は終了しないことにある。
日々更新する人は世の中たくさんいるだろうけど、何年も辞めない人はごく一握りだろう。(と偉そうに言ってみる。)
まあそもそもこの文章が誰の目にも触れないのかもしれないのだから、
いっそのこといつも通り今回も好きなように書き殴ってみる。
さて、冒頭で言ったことは理屈ではなく感覚的なものなのだけれど、果たしてわかってもらえるだろうか。
聞いといてなんだが、わかってもらえる人が(ごく一部にせよ)いることを僕はなぜか確信している。
映画の中に限った話ではない。
特に新宿は象徴的だ。
南口のサザンテラスから高島屋へ向かう大きな橋から見る夕刻のドコモタワーも、
至る所からその異彩を放つ姿をのぞかせるコクーンタワーも、いつもなんだかやけに僕の胸に何らかの感情を惹起させる。
西口の高層ビル群を週末の夕方あたりに歩こうものなら、突如それまでの喧騒が静寂に飲み込まれ、まるで自分ゴーストタウンに取り残されたような、時間も空間も切り取られたかのような不思議な感覚に陥る。
それらは時に感傷的だったり、時に躍動感をともなったり、
そしてなぜかある種の郷愁感を漂わせたりする。
一方で、田舎の風景もなぜか銀幕に映るそれは時に強く心に訴えかけてくる。
(菊次郎の夏や岩井俊二の打ち上げ花火、最近では新海さんの例のやつなど)
この文章を書いていて思ったのだけど、これらは心の時間軸のようなものとどこかでリンクしているのかもしれない。
都会の風景はその時代その時代を映す鏡であり、10年でも経とうものならほんの少し色褪せることもまたその刹那を忠実に投影するような気がする。
仕事や結婚で幸せを感じる人もいれば、蝕まれていく人生もある。
自らの居場所を半強制的に指定されることを心の何処かで望む人もいる。
人生は制約や満たされない欲望があるからこそ充実感や幸せを感じるものだろう。
時に闇が深いほど射しこむ光はその存在を強烈に放つ。
自戒を込めて言ってみるが、金は幸せに生きるための手段でしかないのに手段が目的化しては本末転倒だ。
僕は残念ながら本質的に極度に悲観的で、心の弱い人間だ。
それを変えることはできない。
僕らから(少なくとも僕から)孤独や迷い、葛藤が心の中から消えることは一生ない。
日々の喧騒や限定的でかつ多くの不毛な人間関係に紛れ時間を悪戯に過ごしていると、いつの間にか心の何処かに置き忘れてしまうような、何か大切な、根源的な感覚。
それは人それぞれまったく違うだろう。
でも、最も怖いのはその何かを何処かに置き忘れて日々を過ごすことではなく、
自分の中にまだそれが「ある」ことをきちんと認識しなくなることだと思う。
僕にとって、神宮球場やドビュッシーの旋律、深夜の映画館や春樹の小説、そしてこの「何かを書く」という行為は、
そういうことを再確認することができる、言い換えれば「きちんと引き戻してくれる」大切なものだ。
きっとまた何か書きます。
(そしていつも思う。今度こそ緩いやつを・・・、と)
さて、
雨の日の図書館が好きだ。
意味も無くただ好きだ。
紙の黴た匂いが静寂と外の雨音と相まって醸し出すあの独特の空間が好きだ。
1年半以上更新の滞ったこのブログを誰か見ることになるのか甚だ疑問だが、まぁそれはどうでもいい。
発作的に文章を書きたくなった。
思えば昔から気分が沈むと本屋に足が向く。
特に意味は無いのだけど、僕にはどうもそういう習性があるようだ。
本屋の価値も図書館の価値も、シンプルに単純に感覚的な空間としての居心地の良さ。
これに尽きる。あまり理屈ではない。
なぜ僕は心が荒んだ時に本屋に行きたくなるのだろうか。
それは、そこで本を手にとって眺めている人、本屋で働いている人達なんかが醸し出す、どこか地に足ついた空気のせいかもしれない。
歌舞伎町の地下に跋扈する闇の住人たちとは完全に生物学的に違うカテゴリに属する人たち。
世の中みんな、色んな不満があり葛藤があり、それぞれの苦悩があるだろう。
自分なんか相当に恵まれてると思う。
でもそれがいくらわかっていても、時に街を歩く世間の人たちがどこかやけに眩しくて、無性に胸が苦しくなることってないだろうか。
僕はそういった苦悩を受け容れ、やり過ごす人間としての強さが決定的に、そして致命的に欠けている。
最も好きな作家が、創作活動は「心の中の地下室に入っていくよう」だと表現していた。
そして、「暗くて恐ろしい地下室から帰ってくる強さを養うために、毎日早く起きて走り、執筆して、夜10時には寝る。規則が大事です。」と。
どれだけ強い人間なんだろうと思う。
小説が、文章を書くことがこの上なく器用な人たちが次々と新たなテーマを見つけてきて、空想の世界で大衆を楽しませる物語をゼロから作り出す産物であったとしても全然構わない。
東野圭吾も池井戸潤も百田尚樹も化け物のような才能を持った人たちだと思う。
だけど、僕はそれが物語という形を借りていたとしても、その人の根源的な部分がどこかで投影されたような、
自然に自らのことを振り返ったり、自分がどういう人間か気づかされるような文章に心の底から胸を打たれる。
僕にとってこの世にそういう文章を感じられる作家は一人しかいない。
『おれたちは人生の過程で真の自分を少しずつ発見していく。そして発見すればするほど自分を喪失していく。』
もうこの事実は受け容れざるを得ない。
子供の頃、半年か年に一度くらいにしか訪れない千載一遇のチャンス、新しいファミコンのカセットを買ってもらった帰りの車、後部座席で待ちきれず開封して心躍りながら説明書を開いたあの気持ち。
十代の頃、映画館でタイトル以外なにもわからない映画がこれから始まるあの暗闇の中での高揚感。
女の子とデートして色々となにをどうしたらいいかわからず、それをごまかすために必死にしゃべり続けた青い過去。
上京して生まれて初めて一人暮らしをした時のあの異常なほどの解放感。
こういう気持ちを、その時代なりに違う形であっても取り戻さなければいけない。
毎日、本当に毎日のように頭痛は心身を蝕み、効かない薬の量ばかりが増えていく。
身体はどんどん衰弱して、それよりもっとまずいことに、気力が衰えていく。
自分のこの先の人生に、なにより僕自身が何の期待もしていないというのは非常にまずい。
マセラティはないけれど、このままだと五反田君になってしまう。
いくらかのお金や無駄に重ねた経験のせいであの頃の胸の高まりを過去のものにしてはいけない。
僕はそう思う。
3日後か3年後かわかりませんがまた気が向いたら何か書きます。
凱旋門賞
オルフェーブル・キズナと残念ながら敗れてしまった凱旋門賞について。
昨夜は実況も見ながら「あーあ、また負けちゃったか・・・」と思っていたが、なんだか一晩経ってやたら悔しくなってきた。
正直、今年は勝てるのではないかと思っていた。
そのあたりは皆さんも同じだったのではないか。
単勝が2倍前後というオッズから鑑みても、オルフェーブルの実力が突出しているのはもう世界中の総意だった。
勝ったのは地元3歳牝馬のトレヴ。
5戦無敗でこの世界最高峰のレースを制したのだから相当に強いのだろう。
着差の大きさから、蓋を開けてみたら昨年と異なり今年は実力差という面でも完敗、
という向きが強いがそのあたりはどうだろう。
もうご存知の方も多いかもしれないが、このレースは3歳馬と古馬に異常な斤量差が設けられている。
3歳牡馬:56kg
3歳牝馬:54.5kg
4歳以上牡馬:59.5kg
4歳以上牝馬:58kg
特に中長距離路線では牝馬より牡馬のほうが絶対能力が勝るし、もし成長途上の3歳馬と完成された古馬とが同斤量であれば若駒には確かに酷だ。
だが勝ったトレヴとオルフェーブルの5kg差というのはちょっと大き過ぎるだろう。
元々サラブレッドは異常に繊細な生き物であり、水・食べ物・気温・天候などの環境に相当敏感だ。
ちょっとした物音などに敏感な馬も多く、自分の影に怯える馬用の矯正具だって存在する。
よって競馬自体が「地の利」がかなり大きく影響してくることで知られる。
海外でのレースは外国から参戦している時点で一定のハンデを背負ってると言えるが、それは予めわかっていたことだから言っても仕方がない。
(実際、ジャパンカップで日本馬より遥かに強い海外の強豪を何度も退けてきた。)
一点、メディアで特に言及されていなかったことで、私見を。
キズナに騎乗した武豊が7年前にその父ディープインパクトでこのレースに挑戦してこれまた惜しくも負けたのは記憶に古くない。
論ずる間でもないが、「飛ぶ」馬、ディープインパクトは史上最強馬であった可能性が高い。
しかし凱旋門賞では飛ばなかった・・・。
その時の騎乗がミスだったとは思わなかったが、今年のキズナの騎乗は完璧だったと思う。
奇しくもキズナも父同様、後方一気の直線勝負という脚質である。
もし武豊が7年前、今年のキズナのよう騎乗をしていたらどうだっただろう・・・
今見返してみても、スローペースで末脚を余すリスクや斤量、距離的なロスを考えて超のつく大一番でほんの僅かにこの天才が守りに入った騎乗をした気がしないでもない。
今年は当時と立場も異なり、思い切り控えて直線一気に賭けることが許されたのかもしれないし、さらに言えばそうでもしなければ勝利の可能性も無かったと思う。
今年勝ったトレヴもこれがオルフェーブルのように断然の人気だったら昨日と同じ競馬ができただろうか。。
話を元に戻すと、今年の武の騎乗は本当に完璧だったと思う。
4コーナーで勝ち馬トレヴが仕掛けた時にこれをマークして上がっていった所を見ても、武は相手をオルフェーブルと決めつけていたわけではなかったように思う。
これも後からレースを振り返って少し意外だった。
武はオルフェーブルの強さを嫌と言うほど理解しているはずだからだ。
だが、ほんの一瞬のことだが直線入り口でオルフェに並びかけた際、武がインを締めなかったのが気になった。
あそこで勢いに勝るキズナがもう少しでも予め内に寄ってオルフェの進路を締めればスミヨンは一度外に持ち出さざるを得ず、さらに仕掛けが遅れただろう。
彼ほどの一流の勝負師が同じ日本馬だからといって僅かでも恩情をかけたとは思わない。
ましてや自分の馬にあの時点では勝利の手応えすらあったはずだ。
(しかももっと言えばオルフェーブルの鞍上は地元フランスのスミヨンだ。)
ありえない仮定だけど、武と二人で修学旅行のベッドが隣だったら寝付けない深夜にそっと聞いてみたい。
「あそこは敢えて締めなかったのか?」と。
正直に感想を言うと、武は来年もキズナで挑戦したいといっているが斤量面で今年より遥かに厳しい戦いになると思う。
武がディープインパクトでもっと大胆な競馬をしていつものように飛んでいれば・・・
1999年のエルコンドルパサー(2着)で蛯名がまさかの逃げをしなければ・・・
昨年スミヨンがオルフェーブルのヨレる癖をもっと頭に入れていたら・・・
そしてオルフェーブルの鞍上が武豊だったらどんなレースになっていただろう・・・
勝負の世界にifは禁物だ。
正確には、禁物というより存在しないのだと思う。
なぜならば、すべての勝負事は刻一刻と刻まれるこの現実と同じ、一度きりで一切のやり直しは利かないことを前提に行われるのだから。
だからこそ勝利には意味があり価値があるのだろう。
強い者が力通りの結果を必ず示すわけではないのが勝負の世界だ。
現実でも心の優しい人間が必ずしも報われるものではないし、なんなら時に世界は非情にもその相関が逆に働く傾向だってある。
日本人でスラムダンク安西先生のあの名文句を知らない人はいないだろう。
挑戦を諦めたら、試合終了どころかそこから先はifすら無いのだ。
課題は多いが、来年からもオール日本でしつこいくらいの執念深さで挑戦を続けて欲しいと願って止まない。
動画はちょっとレアだけどディープインパクトがもっとも強烈な印象を残した二戦目のレース。
彼意外スローモーションで、他の馬は牛になり一頭だけ鳥がいた。
無題
人生のとある時点で一定の金を手にした人間が取る行動は、概して欲望の消化とコンプレックスの克服で、実はその二つは同義である気がする。
得てして、10代から20代の人生において最も旺盛に欲望が渦巻く時期に、ほとんどの人はなんらかの我慢や達成できない欲望に駆られて悶々としながら過ごす時間があるはずだ。
その時期を経てある一定の金を手にした時に取る行動、滲み出る変化というのがいかにもその人間の本質を浮き彫りにしていて、非常に興味深いと思う。
まずはそれまで比較的勤勉に生きてきて、同時に鬱屈した人生を歩んで学歴・仕事に打ち込んだ人間が一定の給与水準に達し、いわゆる高給取り(もしくはその手前)になった場合。
これはその後も仕事上でさらに評価されて稼ぐようになる、ということに人生の重点を置く人が多い気がする。
そしてだいたい若い頃よりきっちり貯金していてケチなやつが多い。
非常に申し訳ないが、傾向としてこの手の人は本当に人間として魅力の無いことが多く、同性からも異性からもモテない人がとても多い。
そして本人にその自覚が無かったりするから本当に幸せだ。
だが本人はそこそこかその前後くらいの相手と早々に結婚して子供でも作って謎の優越感と充実感に満ちており、非常におめでたい限りだ。
引き続きどうぞ好きに生きていただきたい。
次に、世の中のまっすぐな道からちょっと外れた世界で生きて小金を手にした人間の場合。
まぁ言ってみれば暴力や色の世界。
これは対照的に、面白いほど欲望のままに散財する。
ただしこのケースはそれまでも比較的自らの欲望に直線的に生きてきた人であり、刹那的に惰性と快楽で金を使う。そしてこれまたさっきの例とは対照的に、人間としては欠けている要素が多いのにどこかしら人を惹きつけるものを持っている人が多い気がする。
(ちなみになぜか僕は結構こういう人たちと馬が合う場合が多い。)
そして面白いのが株などの投資で大きな財産を築いた場合。
いろんなパターンがあると思うけど、本来金を稼ぐ手段であった投資が人生の目的になってしまい、ある一定の金を稼いだ後もその作業にしか価値を見出せなくなっているタイプ。
別にそれは本人の意思なので批判もなにもないのだが、このタイプはけっこう多い気がする。
あと、わかりやすく自らの「失われた過去」を取り返そうと躍起になる人間もいる。
これは冒頭で述べた果たせなかった欲望の消化と、コンプレックスの克服である。
周囲が(一見)自我の確立をした年齢だらけになってくると、こういった人間の本質的な部分が浮き彫りになってくる様を目にすることもなかなかできないので、非常に面白い。
そう考えると、金やそれがもたらす何らかの経験というのはすごい威力だな、と痛感する。
しかし投資の世界では、ひとつの物事に対する異常なまでの執着心やいわば人生の怨念のようなものをこの世界にぶつけるくらいでないと、そう簡単に勝たせてはもらえないというのも面白い。
自分はどうなんだろう、とふと考えてみた。
僕は振り返ると、リスク管理上一応社会と接点を持ちつつ、自分の浅はかな欲望やそれこそ惰性と快楽に流されるように人生を生きてきたように思う。
さらに人の好意や愛情を、悪意も無く結果的に貪って踏みにじってしまう傾向すらある。
正直こうやって書いてみると酷いな、と思う。
なにが良いとか悪いとかそういうことは人それぞれの価値観なので、各自が選択することだ。
でも、個人的には自己顕示欲が滲み出ていたりしてはたから見ててカッコ悪いのと、人に好かれないのは嫌だな、とは思うけれど。
人間ってほんとにいろんな人がいるなぁ、と最近思うのだ。
人の幸福感ってやっぱりその時代での相対的なものなんだろうか。
本人がそれぞれ幸せだと思えるならそれだけで充分なんだろう。
だからといってなかなか自分が生きたいように生きられるものでもない。
なんでも人と比べて自分が優れていることにだけ優越感を持って生きることができれば幸せなんだろうけど、そんな人間になるくらいなら僕は猫になりたい。
生きるということは、孤独とどう向き合うか、ということなんだろうか。
だとすれば僕には決定的にそれと向き合う強さに欠けていて、詰んでるなと最近よく思う。
あらゆることに対して空虚だな、と思ってしまうのだ。