盆ヅラについて
ご無沙汰しております。大変ご無沙汰しております。
突然ですが、僕はブログやめてません。
やめてないどころか年中ブログの構想を練ってます。
なんなら、職業は?と聞かれると間髪いれずに「ブロガーです。」と答えるレベル。
はい、すいません。
今日は、無数に溜まっている下書きのエントリから(しつこい)、「盆面」というテーマを引っぱり出してきた。
しばしお付き合いを。。
タイトルにも書いてあるように、これは「ぼんづら」と読む。
あまり聞きなれない言葉かもしれないが、博打の世界ではとても有名な言葉だ。
「盆」の由来は丁半博打の台から来ているが、賭場や勝負そのものを指す言葉としても用いられる。
要は、盆ヅラというのは勝負における面構え、といったニュアンスの言葉だ。
僕はこの言葉が昔からとても好きでよく使うんだけど、これが意外に色んなことに繋がってくる概念だと思うのだ。
よく、「あの人は盆ヅラがいよね。気持ちがいい。」
などという使われ方をする。
勝っても負けても飄々としていて、フテ腐れたり熱くなって見苦しい様を見せないことを指す。
そして懐がカラになろうが、パシッとあるもの全部叩きつけて「次は負けないぞ」と悔しそうに去っていく。
ただし、僕が思う「盆ヅラの良さ」とは、こういった単に表面上あまり感情的にならないことのみ指すものでもない。
やっぱり麻雀の話になってしまうけど、ある一定の時間一緒に卓を囲んでいると、お互いほとんど会話を交わさなくても卓上で相当量のやり取り、せめぎ合いをしていることがある。
そういう当の本人たちにしかわからない時間・空間を経て、ある区切りがついた瞬間に、一方がふと醸し出す表情、言葉。
そういうものに本物の「盆ヅラ」が顔を覗かせる瞬間があるのだ。
この感覚は、高いレベルではなくてもある時期にでも必死に牌を触ったことのある人ならある程度わかるのではないかと思う。
そうすると、表面的な点棒や金のやり取りだけではない所で互いの存在を認め合うことがある。
僕が考える本当の「強さ」「盆ヅラがいい」とは、こういった要素にも宿るのだ。
余談だけど、麻雀の世界でも一見玄人に見えるような所作(小手返しとかね)や、目先の点数にばかり意識が移ろっているような自称上級者をしばしば見かける。
実はこういうレベルの打ち手が最もやりやすい。
中途半端な強さである自覚が薄く、大局観が見えてない。
そしてなまじ腕に自信があるので、どうも流れが悪かったり目の前が僕のように本来勝てない相手であっても(失礼)その彼我の差を理解できるレベルにないから財布が空になるまで打つ。
そもそも麻雀自体が不確定要素が多くて運に左右されやすいんだけれど、彼らは運さえよければ絶対に勝てると過信している。
逆に運がよくないと勝てない時点で「しれてる」のだけれど。
変かもしれないけれど、歳を重ねるにつれ、勝負そのものよりも勝負に臨む姿勢、結果に至るスタンスや、結果に対する振舞いなどに自らの焦点が移ってくる部分がある。
でもそういった要素が、表面的な勝敗の奥にある「強さ」の次のフェーズにも繋がってくると思う。
かの世界を制した孤高のゲーマー、梅原大吾がこう言っていたのが印象的だ。
>どれだけ勝とうが負けようが、結局は誰もがひとりの人間に過ぎず、結果はそのときだけのものだ。勝敗には必ず原因があり、結果は原因に対する反応でしかない。刹那的な結果に左右されず、勝てるようになるための努力を怠っていいはずはない。
>結果が出なかったとき、どう受け止めるかでその後の歩みは変わってくる。あの時はたまたま負けただけだったんだと運のせいにするか、このゲームが悪いと責任転嫁するか、相手が強かっただけだと諦めるか、自分も年を取ったと頭を抱えるか。だが、そのように一時の感情に流されるのではなく、事実を受け止めて分析することが大事なのである。
これも広義の盆ヅラの話だと思う。
僕の友達には相場の世界で身銭を切って日々戦ってる人たちが多いけれど、言うまでも無く相通ずる部分があるだろう。
勝負は水物で、勝つこともあれば負けることもある。
恋愛だって仕事だって体調だってなにもかもそうだ。
うまくいくこともあれば、どう足掻いてもがいてもうまくいかないこともある。
でも周囲に「あいつは盆ヅラがいい」と言われたいものだ。
その時点で人生においてけっこういい線いってると僕は思うのだ。
最後に、敬愛してやまない棋士・羽生善治の名人戦での投了の画を貼っておきたい。
将棋の世界では相手の王を取れば(詰ませれば)勝ちなんだけど、決して実際に相手の王の駒を獲らないのだ。
負けたほうが、自ら敗北を認めて投了する。
「負けました」と言ったり、盤に手を置いて黙って頭を垂れて意思表示することもある。
僕が好きなのは「ありません」と言う投了の言葉。
(次の自分の手は)ありません、という意味合いだ。
勝負そのものが決したら「散り際の美学」を重要視するのだ。
勝ったほうも、自分の中では勝ちを確信してても、相手が投了するまで妙な気の抜き方をしたり浮つきを見せたりしない。
それまでの死闘をともに戦った同志であり、勝者もまた相手を讃える気持ちを持つのだ。
この動画の勝者、森内名人の表情を見ても、微塵も緩みが無い。
お互いが勝負の行方を確信しても、敗者が「その時」を表明するまでじっと時間を紡ぐ。
とても美しく、でも一瞬で散り行く桜をこよなく愛でる、実に日本人らしい考え方で素敵だと思う。
幸せの体感値、人間の欲望。
さて、と・・・
吐く息も完全に白くなり、もう街の至るところにイルミネーションが光ってますが、みなさん如何お過ごしでしょうか?
半年に一度の更新が暗黙の最低ラインとなっていた当怠慢ブログですが、やる時はやる子や、ってことで先制更新しますね。
(↑3ヶ月ぶりのくせに偉そうなヤツ)
そしていつもの反省を踏まえ、肩の力を抜いて軽めに書いて見ます。
僕は寒がり暑がりだけど、意外にこの冬という季節は嫌いじゃないんだよね。
というのは、春は気ぜわしくて妙な焦燥感があるし、夏の無神経な開放感はどこかほんの少し僕を苛立たせる。
そして秋という季節はとにかく感傷的になってしまう。
日に日に陽が落ちて空が暗くなる時間が早くなってくる夕暮れ時なんて、意味もなく胸のどこかがちょっと苦しくなる。
その点、冬は覚悟さえ決めちゃえば楽しいし、この季節にまつわる雪とか星はとても美しい。
街で見かける寒い中で背中をかがませて身を寄せ合う人達は、夏に見かける無駄に元気な人たちよりずっと素敵だ。
さて、今回のお題は「幸福の体感値」について。
僕の中で、ある仮説のようなものが以前から頭の中を行き交っていて、まとまったら形にしようと思っていたんだけど、結局いつまでたってもまとまらないのでじゃあまとまらないまま書いてみようか、と。
それは、それぞれの人にとって幸せだと思う本人の体感値って、自分が思っているよりもみんな平たいんじゃないかってこと。
うーん、、、やっぱりうまく伝わらないな。。。
しかもどう考えても語弊があってなんかすぐ揚げ足を取られそうだ。
だが今回は屈しない。
(なぜならば冬だから。イミフ)
人間って身長や体重、性格、各能力、運動神経、体質、収入、人望、性的魅力などほんとに色んなファクターが千差万別だよね。
やっぱりそれぞれ得意な分野もあれば苦手な分野もあり、先天的な部分に関しては自分の意思とは無関係だしそれは選ぶことができない。
さらに言えば、現実的には生まれながらに振り分けられたパラメータが相当大きな意味を持つし、それに環境や才能、本人の努力等の変数で変化し、ある程度の年齢に達すると大勢が決すると思うんだよね。
で、それぞれが持つ欲望とか願望って言うまでもなくこの各ファクターの水準に拠るところが大きいと思う。コンプレックスという概念だってこのことに密接に影響しているだろう。
つまり、自分が既に手にしているモノは自分がそれを得やすい能力が備わっているからであって、欲望というのはどうしても自分がなかなか手にできないもの(場合によっては決して手にすることができないもの)から構成されているのではないか、ってこと。
だから、自分が持っている、他人から見てとても羨ましいものは自分にとってはそこまで強烈な価値を持つものではなかったり、有ることが「当然の状態」となっていたりする傾向が強い気がする。
(そのことに感謝すべきってのは別の話ですよ。もちろん。)
少なくとも人生においての『埋まらない最後の1ピース』ではないだろう。
つまり、他人を見て「いいな」とか「羨ましいな」と思うことはあくまで自分にとっての大きな価値であって、当人からすればそこまでの価値はないことって意外に多いのではないだろうか。
そしてそのことが、こちらが感じているほど当人にとっての「幸せ」だと思う大きな構成要素になっているかどうかは甚だ怪しいと思うのだ。
つまり、この理論からすると(ちょっと強引で極端なのは重々承知だけど)それぞれが自分で感じている幸福の体感値って、意外にどっこいどっこいだったりするのかな、などと考えたわけです。
少なくとも自分が思っているより、自分に無いものをもっている人でも本人はすべて万々歳ではないというのは確かだろう。
でもひとつ見方を変えれば、自分の中での考えようや『足るを知る』ということによって、幸福の体感値を変えることだってできるのだ。
近年、いくつかの分野において強烈に突き抜けた能力を持つ人間との縁がけっこうあって、ふとそんなことを考えるようになった。
欲望なんてわかりやすくて安直なものは、一度満たされたところで次のさらに大きな欲望がお題を突きつけてくるだけのキリのないイタチごっこだと思う。
(ま、僕は自分の欲望に正直な人が好きだけれど・・・)
人間が浅はかで際限のない欲望を待つ生き物であることは歴史が証明している。
そんなものにのみ振り回される人生というのも空虚かもしれない。
でも人によって、その際限ないイタチごっこをクリアし続けることに本物の喜びを見出す人もいるし、年齢を重ねて子どもや孫のような無償でかけがえのない存在を得ることで、自分の人生の主役が自分でなくなることが幸福だと思う人だっている。
そう考えると、なんだか人間の欲望や幸福って面白いと僕は思うのだ。
強いということ。不条理。
今回は僕の考える、『強い』ということの要素について書いてみたいと思う。
予め断っておくけど、今回のエントリはひたすら僕の麻雀に対する考察を書き連ねただけのものなので、
興味も関心もまるでない方にはなに言ってるのか全然わからないかもしれません。
「へー、そんな世界があるんだね」と思ってもらえれば嬉しいけれど。。。
前回のエントリではひたすらのめり込んだ大学時代の話をしたが、別に僕は天才でもなんでもないので
いきなり初めからガンガン勝てたわけではない。
前回も触れたが、フリー麻雀では腕に覚えのある打ち手が集まるので、仲間内のセット麻雀とはレベルがまったく違う。
また、揉め事がおきないよう結構厳格にルールが設定されている。
例えば自分の上家の人が牌を切ったあと、ヤマの次に自分がツモる牌に少しでも触れたらもう上家の切った牌を
鳴くことはできない。
これは、別に盲牌(指の腹で牌の下側を触って見なくても何の牌か認識すること)をしていなくて、
ただちょっと指が触れただけでも、それを戻してじゃあチー、というわけにはいかない。
仲間内の麻雀だとそこまで厳しくしなくても、というレベルの話かもしれないけど、フリーは知らない者同士が
卓を囲む場なので、その辺りはかなりきちんとルール設定されている。
当時僕と同じように相当に麻雀好きの友達に連れられてフリー巡りをすることもあれば4人集まりそうだと
都内のいろんなところの雀荘に行った。
西は八王子から、立川、国立、国分寺、吉祥寺、西荻窪、阿佐ヶ谷、高円寺、新宿、渋谷、高田馬場・・・
とにかくいろんな雀荘に行った。
主戦場にしていたのは吉祥寺のとある雀荘で、著名な麻雀漫画家のお店でたくさんプロも出入りしているような店だった。
プロといってもプレイヤーとしてフリーで麻雀を打って生計を立てているわけではなく(というかそんなことできない)、
フリー卓の欠員補充がメインの雀荘のバイトである。
空いてる時間は牌を拭いたり、飲み物を出したり、煙草を吸ったりしている。
お客さん4人でフリー宅が立っていて、一人やめるとそこにそのメンバーが入って続行するのだ。
ちなみに麻雀のメンバーは時給こそ出ても、この麻雀の収支は自腹だ。
負ければバイト代から引かれるし、その日の負けが給料より多くなる日なんてのもザラにある。
仕事は楽だろうし、麻雀好きには最高の職場かもしれないが、弱いとまったく給料は残らない。
(ちなみに世の中の雀荘には、こうしてお店に借金を作って飼い殺しにされている従業員が無数にいます。。)
世の中の人は結構勘違いしている人が多いけど、麻雀プロといっても講師やCS放送などのテレビ出演、
著書、雀荘のゲスト参加などだけで生計を立てている人は、ほとんどいない。
恐らく片手で数えるほどしかいないのではないだろうか?
プロというのは団体の試験を受けて合格すれば名乗れるもので、決してその資格があるだけで食っていけるというものではまったくない。(そしてむしろ会費が徴収される。)
ある程度の雀力の人が受ければ、その試験に受かるハードルは全然高くないし、女子プロ団体に至っては
目も当てられないようなレベルのプロもたくさんいる。
というか女子プロの中で、まともな高レベル卓で張って打てる子なんて数人だと思う。
そのあたりは集客面や知名度向上など、この業界の生存戦略でもあるのだと思うけど。。。
話は逸れたけど、その吉祥寺の雀荘でいろんなことを知った。
まず、大学の仲間内で一番強かった僕は、自分より明確に強い、という人の存在を知らなかった。
その雀荘でフリーを打つようになってから、いろんな強い人と一緒に打った。
僕には若さも勢いも、そしていくらかの素質もあったし、基本的にしっかり打てば麻雀では勝てるものだと思っていたのだ。
だが、たくさんの人たちとそこで打って、自分の立ち位置を知った。
普通なのだ。
けっして弱くはないが、明確にその中で強いという存在ではない。
初めの頃の僕には、それがなぜだかよくわからなかった。
ある程度の手が入ればきちんと「正しい」手順で打つことができたし、なにかの知識不足で間違えていることがあるとは
思えなかったからだ。
だから、勝てなかった時は運のせいにしていた。
麻雀はもともと運の要素がとても強い競技である。
今日はあまり配牌(一番初めに手元に配られる牌のこと)が良くなかった、ツモがよくなかった、あの人がツイてただけだ・・・
いろんな理由が思い浮かんだけど、強い人はそういうことではなく、はっきりと僕より強かったのだ。
そしてそこから、常に試行錯誤、自己分析をして打つようになった。
ただ自分に配られた牌を使って役を作りアガることだけを目指すのではなく、強い人が何を考えて、
局面局面でどういう打ち回しをしているか、徹底的に研究した。
時にずっと打たずに上級者の後ろで見て、終了後に「あの時のあの打牌はどういう意図なのか」と質問した。
そして、自分に足りないものと、麻雀にもそれぞれの特性があることを知った。
ここで、僕の考える麻雀における重要なファクターを挙げてみたい。
・あらゆる可能性と確率(牌効率)
・リスクリターンバランスと状況判断の精度
・運と巡りあわせ
今回のエントリを書くにあたってしっかり整理してみたが、この三つだと思う。
そしてこれらは一見独立しているように見えて、それぞれが密接に絡み合ってその総体として結果に帰結していく。
ずいぶん長くなってしまっているけど、それぞれ思うところを簡単に説明したい。
・あらゆる可能性と確率
基本的に、麻雀は毎局毎局、自分に配られた配牌をもとに一巡ごとにツモ牌と不要牌を入れ替え、手役を構成していく。
中には三色同順や一気通貫など、見た目の役の美しさに惹かれて形にこだわる人も多い。
だが、僕はあまりそれが勝負おける重要な要素だとは思わない。
それよりも、配牌を起点としていかにあらゆる可能性を考慮しつつ、聴牌に向かって一直線に最短距離で向かえるか、
が重要だと考える。
目的が勝利なら、美しさや美学より優先されるべきはスピードとバランスだ。
そのためには、河にあるすべての捨て牌、そしてそこから推測される他者の手元牌、それらから自分の向かうべき
最終型のイメージを作り、柔軟に冷静に取捨選択をしていく。(これを牌効率と呼ぶ。)
この一見みんな当然のようにやっているシンプルな作業だが、最速で完璧な隙のない手順を踏むというのは
そう容易なことではない。
一局でいいので、経験者は完璧な取捨選択というものを意識してやってみて欲しい。
そうすると、普段からいかに真剣にやっているつもりで、「完璧ではない」選択をしているかわかると思う。
例えば不要の字牌を切るにしても、自分が平和系の手で字牌が不要なら他者が二枚重ねて対子になる前に
東や三元牌から切るべきだし、手がある程度整ってきて12の辺チャンを切っていく場合にもほかに理由が無ければ
リスク上の観点では順番的に先に2から切るべきだ。
結果的に誰も鳴かなければ東から切ろうが北から切ろうが同じかもしれないし、たまたま辺チャンを落としていく途中で
誰かが聴牌、そして自分の後者の打牌であがられる確率なんてのは相当に少ない。
だが、ゼロではない。
そういったことも含めて「完璧な打牌をする」(結果論関係なしに)というのは、実は相当難しいことなのだ。
そして勝利を追求するならばそうすべきだ。
そして面白いのが、この牌効率だけが麻雀で強いということのすべての要素ではないということである。
・リスクリターンバランスと状況判断の精度
とはいえ、相手あっての麻雀である。しかも四人がそれぞれの意図を持って勝つために最善だと思う選択を
毎回毎回の作業で重ねているのだから、まったく思うようにはいかない。
そこで、「今自分はこの手を進めるべきなんだろうか?」
「ここは一旦引いて静観するべき局面ではないのか」
「普通に考えればこの手はこう打つところだが、万が一他者が危険を顧みず突っ込んできたときには
足を掬われるかもしれない」
こういうことを常に考えながら打つことも重要だ。
逆に、「道のりは厳しいし成就する確率も高そうではないけど、この状況ではそれでもガードを完全に下げて、
その薄い可能性に賭けるところだな」という時もある。
自分が進めている手順が正しいのはわかっている。
だが自分の手牌にとって最善手を打つということは、同時に他者へ無防備になることも意味する。
自分の手牌にとっての最善手と、あらゆる要素を鑑みた総合的な最善手が異なることだってあるのだ。
常に自分が進めている打牌のリスクリターンと、その局面で自分が取るべきリスクの範囲を冷静に判断することが
重要だと思う。
・運と巡りあわせ
さっきからごちゃごちゃと色々書いてしまったが、結局は「運」というのもまた重要なファクターだ。
何度も言っているように、麻雀という競技は運による要素が非常に大きい。
誰がどう打ってもこう選択する、という選択が痛恨の一打となってしまうことだってある。
また、どんな初心者でも配牌さえよければ簡単に大物手をアガって、その半荘逃げ切ってしまうことだって
往々にして起こり得る。
それが麻雀の持つ面白さでもあるのだが。
一過性の運に対してはいかに上級者であっても従うべきランダムな要素であり、時にそれは不条理であったり
それこそ確率論では片付けられないくらい異常な偏りを見せることが多くある。
その辺りはひと通り麻雀を打ったことのある人ならば体感したことがあると思う。
これらの3要素が複雑にかつ密接に絡み合い、総合的な打ち手のレベルとして反映される。
立直を一発でツモりあがることも、超大物手が配牌として現れるのも、それは決して腕ではない。
荒い言い方をすれば「たまたま」である。
僕の考える本物の麻雀の強さとは、
・その運の流れが自分に傾いているときにいかにその状態を持続させる方法を感覚的に身につけているか
・勢いを殺すような打ち方をしてないか、あるいは逆に強気一辺倒になって雑な選択をしていないか
・状況判断が冷静で正確で、毎回完璧な一打、最善手を尽くしているか
(時に、自分の手をアガりきるより遥かに優先順位の高い選択肢というのが存在する)
→例えば最終局面でマークした相手に字牌を鳴かせないまま絞って流局に持ち込む
あるいは、ある一人に直撃されなければ、他者に放銃することで終わらせる場合だってある
最後の例なんかは、局面によってはそれが「最善手」なのだ。
そこには他者との点数差、相手の手牌の読み(必要字牌の読み、待ちの読み、アガリ点の読み等々)などが必要となる。
もちろん超能力者ではないので完璧に読み切ることは誰にとっても不可能だが、あらゆる可能性と
場のすべての材料から読みとれることで、ある程度精度の高い予測は可能になってくる。
ここでいう「場から読み取れるすべての材料」というのも、実にさまざまな要素がある。
相手が鳴いた時の牌の晒しかた、発声、目つき、それまでの対局から想定される特性、等々・・
人間は自分が思っている以上に癖というものがある。
理牌(牌を手元で順番どおり綺麗に並べること)にも癖があるし、不要牌を切るときの所作一つで本来の必要な牌を
推測できる場合もある。
また、立直(リーチ)せずに聴牌している場合(いわゆるダマテン)も、聴牌した瞬間の一瞬醸し出す違和感や、
その後の場を見渡す視線の雰囲気で感じ取れることも多い。
余談だが、いろんな人とこれまで対局していると、一番初めの配牌をヤマから取る手つき、牌を切るスピード、切り方、
間合い、さまざまな所作からその人がどれくらいのレベルなのか一見してある程度わかるようになる。
そういった観点であらゆることを意識して打っていると、そのうち目をサラにしてじーっと観察していなくても、
いろんなことが自然に感じ取れるようになってくる。
考えるというよりも、感じるのだ。
そうすると、他者が立直したあとであっても、
「あー、確か3巡前のあの牌を切る時に逡巡してたな」とか、
「なんであの牌を切るときはノータイムで、今回のこれを切るときはちょっと考えたんだろう」
とか、あまり深く意識を向けていなくても、色んなことに気づけるようになってくる。
意外に麻雀の上達をこういった要素にみていない人たちも多い。
僕が思うに、麻雀がある一定のところまでは誰でも加速度的に上達する。
そこでもう考える余地は無い、このあとは運次第だ、と多くの人が勘違いするのだ。
そこから上達の曲線の傾きは極端に緩やかになるが、それでも強くなりたい人のみがその先を意識をする。
そしてそのフェーズも到達すると、あとは自分の特性を最大限に発揮する打ち方を追求できるか否かだと思う。
この辺りになるともはや性格や素質の領域であるような気がする。
あと、僕の考える麻雀を打っているときの「最高の状態」ということにも触れておきたい。
今言ったような、場で起きているあらゆることが無意識に自然に感じ取れる状態。
また、体力、精神状態、運とすべての要素が備わった状態(そうそうはないけれど・・・)。
本当に脳が冴えている状態だと、ありとあらゆる選択を脳が自動処理するような感覚になる。
脳が反応、反射して手が動く。自然に声が出る。
そして最終形がその過程において柔軟に、かつ自然にイメージでき、帰納法のようにそれに向かって必要な選択ができる。
そういう状態だ。
もちろんいつもそういう状態で麻雀が打てるわけではない(むしろほとんど無い)けど、
そういう感覚を知っているということも『強さ』の一つだと僕は思う。
どうも長々と書き殴ってしまったけれど、麻雀なんて一つのゲームである。
正直に言うと、もう社会人になって近年は、昔のあの情熱を持って麻雀に向き合うことはできない。
でもたかがゲームであっても、それに魅入られ、自分なりに深く追求したことで色んなことを知ることができた。
様々な人と出会ったし、この先もずっと連絡を取り続けるであろう友達だってできた。
ものごとの大局観や、勝負事において重要なこと(覚悟や自制心など)だってたくさん教わった。
そして、なにより自分がどういう人間か知ることができた。
僕は自分が思っているより感情的になり易い人間だと思ったし、それがプラスに働くことなんてない。
アツさなんて胸の内で静かに秘めてればいいし、冷静さを欠いた人間にいい巡り会わせが訪れることなんてない。
また、特性として攻撃力よりも俊敏性と守備型の打ち手だし、そこを主眼にして強固でブレない精神力を活かせるように意識した。
あと、変なことを言うようだけど、その時考え得る完璧な選択をしたところでそれが報われることばかりではない。
そんな不条理なんて生きてればいくらでもあるし、でもそれを受け容れてそこからさらに受け流すなり、
人事を尽くして天命を待つなり、なんとかやっていくしかない。
でも、だからといってその不条理がゆえに考えることを放棄した人間は、少なくとも報われることはない。
そういうことを漠然とだが考えるようになった。
例によってまとまりのない終わり方だけど、最後まで読んでくれた方、ありがとうございました。
麻雀大会
みなさんご無沙汰しております。
前回のエントリが年末だったので、もうかれこれ2/3年も経ってしまいましたか・・・
そしてその間にもまたたくさんの人に「実は前からブログ見てるんだけど、更新まだー?」と
言われ、その度にありがたいなぁと思ってました。
またこうして見に来てくれている方、本当にありがとうございます。
冒頭から言い訳すると、ブログの更新が滞っていたのにはいくつか理由があってですね。。。
はい、いきますよ言い訳↓
・思ってることをtwitterでその場で吐き出してしまう
(言いたいことがストックされない)
・ひとつのテーマについての断片的な思考が、自分なりにひとつにまとまらない
・思考を文章として形にする作業が体力的に容易ではなくなってきた
こんなところです。
前にも言ったかもしれないけれど、僕の中で文章を書くということは、
①何かのテーマについて自分なりの思考を整理する
(意外に自分が考えていることが実はわかっていなかったりする)
②そして最終的な結論のようなものに行きつく
③それを文章として正確に表現して人に伝える
という段階的に複数の作業が必要で、それは僕にとってそんなには容易なことではなかったりするのです。
あとね、周囲であまりに知識も経験も思慮深さも飛び抜けたものを持ってる人をたくさん見過ぎて、
なにか自分の考えてる薄っぺらいことを文章にするのがとても浅はかな行為である気がしてた、というのもあった。
きっとあまりそんなこと考える必要はないのだろうけど。。。
でも、原発問題、マーケットについて、村上春樹について、コンプレックスと欲望と幸福について、そして領土問題について、等々 僕の頭の中にもいくつか書いてみようと思うことはあったんだけど・・・
いかんせん筆が進まなかったのです。
ということで言い訳はこれくらいにして久々のエントリです。
そして今回のテーマは『麻雀』。
8/26、都内某所で主に個人投資家12名(運営除く)が集まり、麻雀大会が開催された。
幹事のずんちゃかさん@Zoomchakaさんの人脈、威光もあり、五月くん@hakurei_am、パリテキサスくん@paristexas2009、ほいみんさん@takechan0720などなど、そうそうたる顔ぶれが集まり、非常に香ばしく濃厚なメンツが一堂に会した。
ぎゃーぎゃー騒いでたのでもうほとんどの方はご存知だろうけど、その大会で優勝することができた!
(予選2着、1着、1着 決勝1着、1着)
一応優勝候補だと言われていたけど、実際に勝てると本当に嬉しいものだ。
そしてやっぱり自信になる。
というのも、経験者ならわかると思うけど、麻雀というのは本当に運の要素が大きい。
僕の感覚では丸一日、せめて半日やるとそれなりに力量が数字になって表れるけど、それでも「今日はてんでダメ」という日なんかだと終日流れに乗れなくて終わることも非常に多い。
ましてや半荘数回の短期決戦では紛れが生じやすく、運のいい人が勝ち、となるのでは・・
と踏んでいた。
ましてや10人に1人しか生き残れない、と言われる株の専業投資家の中でそのヒエラルキーの思いきり最上層に君臨する猛者たちだって何人も参加している。
心のどこかで、「くそぅ、きっと純粋な雀力なら誰にも負けない自信はあるけど、結局最後はいいところ持ってかれるんだろうな・・・」と思っていた。
まぁそれもこの麻雀というゲームの面白いところで、例えばある程度実力の近い10人で10回大会をやると、優勝者は
下手したら7,8人出るんじゃないかとも思う。
それくらい運と不確定要素の強いものなので、一層今回の優勝は嬉しいものがあった。
いや、ちょっと待てw
こんなに久々に更新しといて、別に延々その大会の自慢をしようというわけではない。
今日はその麻雀というゲームの持つ魅力、僕なりの考え、などを書いてみたいと思う。
僕が麻雀と出会ったのは月並みだけど大学に入学してからのこと。
大学では、周囲にルール自体は高校生のときから知っていたという友達も多く、自宅で小さい頃から家族とやっていたという英才教育型もいたし、中には高校時代から雀荘で打っていたというエリート(?)もいた。
覚えたての僕は当然初めはそんなに勝てなかった。
でも一瞬でその楽しさに目覚めた。
トランプや将棋、チェスなど、他の競技とはなにかが決定的に違って、本当に面白かった。
1、2ヶ月でその仲間内では徐々に勝てるようになり、数ヶ月経つとその中では常勝するようになった。
そして半年くらいすると、大学のある程度のコミュニティの中では一番強くなっていたと思う。
今改めて考えると、そんなにレベルの高い集団ではないし、その頃の自分だって今の自分が一緒に打てば、
見るに耐えないレベルだと思う。
でもきっと僕にはなにか向いている要素があったんだと思う。
我慢強くない僕は将棋や囲碁の深くじっくり掘り下げる思考は苦手だし、一つのことが終わるのに時間がかかるのも好きじゃない。
麻雀はその世界観、雰囲気もさることながら、とにかく理屈抜きに楽しかった。
大げさに表現すると、そこに小宇宙を感じた。
とにかく麻雀が好きでたまらなかったのだ。
そしてそこから、文字通り寝食を忘れてのめりこんだ。
寝ても覚めても麻雀のことで頭が一杯で、終わった後もその日の印象的だった一局が脳内で何度もリフレインし、
徹マン明けも脳が興奮してなかなか寝れなかった。
そして寝れないから当然また雀荘に行く。
脳内で架空の配牌からどうツモが展開してアガリまで持っていくか、のイメージトレーニングのようなものを
自然に四六時中やっていた。
本当にやった時期は一週間で3日か4日は徹マンしてた。
友達の友達など、とにかく4人集めるためにセット要員に電話しまくった。
実家に帰ると、普段オヤジがやってる面子に入れてもらって打ったりもした。
夕方から徹夜で翌朝まで、というパターンが多かったけど、ぶっ続けで24時間以上やったことも何度もある。
ちなみに経験者ならわかると思うけど、徹マン明けに雀荘から外に出ると太陽の光がやたらと眩しいんだよね^^
やめるときは誰かがお財布が苦しくなって、とか学校やバイトでというきっかけで、10時間とかやってても僕から
そのセットを止めようと言い出すことは絶対になかった。
留年だってしたし、いまだにそのことは親に申し訳ないことをしたと思う。
でも今思えばあれほど人生においてなにかに没頭した、という経験は他にそうそうないと言える。
中学高校、大学とサッカーにあけくれて全日本選手権にまで出場したという人もいるだろうが、
僕の場合はそれが麻雀だった。
やったことがない人でもそのイメージくらいはなんとなくわかると思うけど、麻雀は4人でやるものである。
各4枚ずつある34種類の牌(合計136牌)を組み合わせ、役を作り、あがる。
「役」というあがりの形、点数は様々だけど、この一見シンプルなゲーム性の中には本当にいろんな要素があって、
奥の深さは計り知れないものがある。
さっき小宇宙という表現を使ったけど、あながち言い過ぎでもない。
勝負事の流れや目に見えないもの、理屈を超えた従うべき感覚的なものの存在、理性と感情、
人間の本性、そして自分の意外な一面。。。
「あぁ、おれって常に冷静に判断してると思ってたけど、明らかに感情的になってるな・・・」
とか、「今この状態で攻めてもきっと空回りするから、ここはいったん引いてみよう。」
また、「ここでやられると完全に勝負付けが済んでしまう」という局面での振舞い方。
そこを押し切ることでブレイクスルーのきっかけになるかもしれないし、逆にリスクリターンバランスを考えて
そこは慎重になるべき局面かもしれない。
面白いのが、正解は確率や結果論からすると一つなんだけど、打ち手の性格、タイプによって
その局面局面での最善手というのが異なることもしばしばあるのだ。
(このあたりはブログ後半で・・・)
これは牌を触ったことのある人ならなんとなく理解してもらえると思う。
麻雀を打ってると、毎回毎回が何かの選択の連続なので、さまざまなことを感じる瞬間がある。
本当に奥が深いのだ。
麻雀は4人集まらないと成立しないし、今は全自動宅が必須なので誰かの自宅で気さくにやれるものではないので、競技としてはかなり実現ハードルが高い。
(二人いて、盤と駒、石などがあれば成立する囲碁や将棋なんかとはちょっと違う。)
それでも世代あまり関係なく、ある一定層が常に惹きこまれているのを見ると、
この競技の持つ魅力がわかってもらえるんじゃないかと思う。
僕は大学では麻雀を一緒に打つ数人の友達以外、あまり友達とよべる友達はできなかった。
なんというか、いろんなことが根本的に違っていた。
みんなサークルやバイト、そして勉強に忙しかったのだ。
そして僕は次第に、隣町や少し離れたところにある雀荘の常連になり、フリー麻雀を打つようになった。
フリー麻雀とは、仲間内ではなく知らない人同士がその雀荘で集まり、店の仕切りで対局がセッティングされるシステムのことだ。
(それ以上のナーバスなことについてはここでは触れません 笑)
フリーではではいわゆる仲間内で集まるセット麻雀とは違って、ある程度レベルの高い打ち手が揃う。
そこで初めて、「この人は自分より強いかもしれない」という人に何人か出会った。
でも僕には毎日加速度的に上達する自分が実感できたし、向上心も素質もあった。
そしてなにより牌に触ることが楽しくてしょうがなかった。
自分よりいくらか上手い人がいても、時間の問題で近いうちに上回るのが必然だと思ってやっていた。
まぁ若いというのは素敵なことですね。ほんとに。。
そして実際にそこで「最強」といわれるようになった。
雀荘のメンバーとも当然仲良くなり、ここではなぜかいろんな人たちとすぐ友達になった。
僕のような大学生も多くいたけど、普通に生活してたらなかなか出会わないであろう人たちとたくさん友達になった。
元No1ホスト、ヒモ、AV男優、パチプロ、ソープ嬢、浪人生、麻雀プロ、漫画家、、等々。
雀荘で会う人たちと麻雀を打ちながらいろんな話をするのは本当に楽しかった。
僕はやけに生真面目でなんだか平穏すぎる普通の大学生より、刹那的に生きてる人たちに惹かれた。
妙なプライドを持った(しかもそのことをあまり自覚してない)周囲の大学生がなんか鼻についたし、
人間的な魅力という意味では、むしろ雀荘で出会う人たちが放つものの方が遥かに強力だった。
ただ、今思えばこの頃の僕は、若さや勢いや純粋さはあっても、本当の意味での麻雀というものを理解していなかった
ように感じる。
大げさかもしれないけど、ひとつの事をとことんまで突きつめると、そのことだけでなく人生におけるヒントというか
自分なりの価値観みたいなものの形成にまで影響を及ぼすと思う。
その頃の僕はあまりそういうことについて俯瞰的に考えられなかった。
→続
ちょっと長くなったので、第二部ではその辺を中心に書いてみますね。
(経験者でないとちょっと一部言ってることがわかりづらいかもしれませんがその辺はご容赦を^^)
強くなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない。
毎日なかなか寒い日々が続いているけれど、みなさんどんな日々をお過ごしでしょうか?
明るく活動的な季節の反動でいつも秋はやたらと感傷的になってしまうけれど、毎日これだけ
暗くてしっかり寒くなると空気も綺麗に感じて、逆に悲哀感のようなものは無くなる気がする。
前回の更新からまたかなりの間が空いてしまったこのブログを見にきてくれてありがとです。
最近いろんな人に「まだ更新しないのー?」と言われ、なんだか本当に嬉しかった。
こんな怠慢更新ブログを、自分が思っているよりも本当にたくさんの人が覗きに来てくれてる
みたいで・・・
(そういうこと言ってもらえなかったらとっくにやめてるw)
というのも、なんというか自分が好むと好まざると関わらず、ここのところいつにも増して
色々なことが起き、日々をこなしていくのがやっとという感じだった。
特に仕事が忙しいということでもない。
表面上は普通の日々なんだけど、なんというか、余裕がないのだ。
いつだって誰にだって当然いろんなことは毎日起きているだろう。
ただ、ここ最近は自分の周りで起きた出来事に対して、明らかに適応力が低下している気がする。
ほんの少しの時間が経ってそのことを振り返ったり、また日々起きたことを受け入れるのに
ちょっと感情の整理が追いつきにくくなっている感じ。
そういう感覚ってやっぱりみんなにもあるんだろうか?
相変わらずそんな小難しいことを考えてます^^
さてマーケットについて
欧米のマーケットはあまりに場当たり的に感情的な動きをするし、日本はもはや完全に
主体性を失っている。
(もともとあるかは知りませんが・・・)
翻弄されるというよりも「無気力な傍観者」という表現のほうが正しいのかもしれない。
GU・GDでしか動かないのは、どうせ欧米市場が夜間に大きくどちらかに動くんだろう、といった
冷やかな目で参加者が見ていてポジションを傾けづらいのと、その薄商いの中で日中に大きく
売買をしていたCTAなんかがすっかり大人しくなってしまったというのも原因だろう。
方向感も前のめりな参加者もいないから、大人もきっと独り舞台ではなすすべ無しなんだろうね。
そして今残っている、体力的にもスキル的にも上級レベルの参加者が、ごく一部の投機化した銘柄で
ゼロサムゲーム繰り広げている不毛な日々が続いている。
世界を見渡すと、一触即発の欧州情勢、構造的欠陥が完全に馬脚を現した通貨危機、そして失業率の
高止まりが続く緩慢な米景気の回復。
そして不動産バブルの崩壊が危惧されるなど急激な経済背長とその歪みの中で、したたかな外交姿勢と
ともにますますその存在感を増していく中国。
経済的視点でこうして今世界を俯瞰してみても、残念ながら日本の存在は特筆すべきものではない。
いや、タイの大洪水が少なからず世界経済に影を落とした影響を考えると、これだけグローバルに
各地域が密接に繋がりあっている今、日本の経済活動が世界にとって全く取るに足りないものである
わけがない。
日本の企業が生み出すモノ、サービスの絶対的価値はまだまだ世界にとって不可欠なものも
たくさんあるはずだ。
恒常的な円高や無能な政治家達に足を引っ張られつつ、これだけ厳しい外部環境に晒されていても
それでも日本企業の生命力というか収益を捻り出す力は大したものだと僕はいつも感心している。
でも、世界経済にとって日本が「特筆すべきものではない」のは、その存在感の無さに因るのだろう。
資源もほとんどなければ世界の需要を牽引するわけでもない。
品質の確かなモノや新たな価値を創出することに長けていても、それは裏を返せば世界経済に寄生する
存在、他力本願ということなのだろう。
少子化、高齢化社会の進行が確定的な人口構造的にも、崩壊しつつある年金制度の問題にしても、
もはや今の日本を取り巻く閉塞感たるや如何ともしがたいものがある。
国全体が自信を失い、将来への希望を見出せずにいる。。。
正に株式市場はそんな国民の閉塞的なマインドを映し出す鏡のようなものだと思う。
地を這うような株価は、人々の不安や、ただただ今をやり過ごすしかない心理を具現化したものなんだろう。
今、株価が(ものによってだけど)異常な割安であるものが散見されているの紛れもない事実だ。
ほんの一昔前、PERが一ケタ台の株なんて超割安株だったし、増してやPBRが0.8倍、配当利回りが
5%以上ある銘柄なんて、ある意味異常値として即是正されていた。
だけど将来に明るい未来が見えない以上、過去の価値観での割安、なんてものは理由にならない。
価値観の基準、尺度が刻一刻と変化しているのだから、それを捉えること、少なくともそのことを認識する
ことは必須だろう。
今ついている株価は、今見渡せる景色全体、将来を見渡した景色から逆算したフェアバリューと
いうことなんだから、それが「おかしい」ということはそもそもないのだと思う。
でもね、僕はいくばくかの自戒を込めてこう思う。
「そろそろ新しい時代を受け入れないか?」
楽しいばかりの、そして若くて勢いのある時代は終わった。
それを認めないことには先に進めないのである。
今年、あるフォロワーさんがこんなことを言っていたのが印象的だった。
>最近どこでも「破局」とか「崩壊」とか大クラッシュ」とか「奈落」とか「未曽有」とかの
単語見るけど実経済はそんなに脆くないで。
経済は人間の営みやから叩きのめされれば必ず立ち上がる。
極度に悲観しているのは実経済の上澄みで食ってる投資界とか金融界の人の話。
確かに実経済は日々の人々の営みから成り立っていて、その「生きる」という行為はある時から
突然崩壊するような、そんな脆いものではないはずだ。
お金が無くなると、どうしても人間の心は荒んでしまう。
自分を取巻く環境が悪くなると、どうしても他人のことが許せなくなってしまう。
そして今、妬ましさを歪な正義感を振りかざして正当化する妙な空気感が充満している。
(そういえば、高所得層の所得税を強化して低所得層への現金支給なんて完全にトチ狂った政策が
議論されているようだけど、正気の沙汰じゃないよね)
そして人々の幸せの基準なんて、その時代その時代での相対的な他人との比較である側面も
否定できない。
でも、昔を振り返ってそこを基準に今を憂うより、今という時代を、現在の自分を受け入れて
気持ちを整理して前を向くことにしかやはり意味はないのだと思う。
冒頭の部分で、個人的にいろんな出来事に対して後追いでの感情の整理機能が低下している、と書いた。
でもそれは、年齢を重ねるということで少しずつでもいろんな経験をして、柔軟さを備えていくと
ともに、譲れない頑なな部分も出てきて、自分がどういう人間なのかが客観的にわかってくる。
そして同時に安直に自分をごまかすことができなくなるという側面があるのかもしれない。
そんなことをふと考えた。
それは一概にいいことでも悪いことでもないような気がする。
若い頃に、無尽蔵な体力と無根拠な未来への確信をもとに、時間を浪費したり、あらゆる欲望に突っ走るのは
当然楽しい。背景となる時代に勢いがあればなおさらだ。
でも、人の気持ちは常に変わっていくし、季節だって景気だっていつの時代も循環する。
(株価もね!)
憂いたって嘆いたって泣いたって、あるいは何かを信じたくたって、変化する性質のものなのだ。
それくらいある意味単純にものごとを考えて今を受け入れないと、なんだかいろんなことを考えてるとキリがないし息苦しくなってしまうよね。
聞いたことある人も多いだろうけど、レイモンドチャンドラーという作家の作品にこんな言葉がある。
「強くなければ生きていけない。
優しくなければ生きていく資格がない」
そして僕はこう思う。
生まれた時から強い人はたくさんいるかもしれないけれど、多くの苦労したり、何度も挫折して
葛藤して辛い思いをしなければ人の痛みはわからないし、本当の優しさは身につかないだろう。
僕は今年本当にたくさんの人によくしてもらった。
そして口には出さないことも多いけれど、それはかつて僕には想像もつかないような苦しみや悲しい
ことを乗り越えてきた人たちだけが持つ、特有の優しさを彼らから確かに感じれるのだ。
これは間違いない。
人は長く苦しんだり心の底から悲しいことがあるとそれだけ人の痛みがわかるし、そういう経験を
乗り越えてきた人独特の芯の通った強さや、無償の優しさを感じ取ることができる。
今年、日本では本当に厳しい出来事があった。
このことは今後も決して微塵も風化させてはいけないことだし、国自体がこれからもずっと
一丸となって乗り越えなければいけないことだと思う。
今みんな下を向いてうつむいているし、なんとも言いようのない閉塞感に打ちひしがれている。
いい時代なんてもうこの先未来永劫こないと思っているような向きさえある。
でも、この経験は絶対無駄にはならない。
無駄にしないために、できる人から順番にやっぱりどこかの時点で背筋を伸ばして、
前を向いていかないといけないと思う。
これだけ辛いことや絶望的なことに直面させられたということ、そして厳しい時代を過ごしていること
は、これを強さや優しさに変えられるということだ。
今年は(今年も)いろんな人を振り回したし、自分で散らかしときながらその惨状を見てうんざりして
きちんと整理できなかった。
そんな自分が嫌だったりもした。
来年は敢えて単純に、原点回帰で自分の感情に素直に楽観的に考えようと思う。
今の自分には意識的にそうすることが必要だと思った。
今年もたくさんの人に触れ、多くのことを気づかせてもらった。
自分がどういう人間かも改めて知った。
(今さら・・・w)
少し前にも呟いたけど、人間それぞれ価値観が一人一人異なるのは当然だと思う。
でも自分と異なる価値観を否定することではなく、違う価値観として認めることはとても重要だ。
色んなことに気づかせてくれた皆様、感謝しております。
甘やかしてくれた皆様、大好きです。
冷たく突き放してくれた人、来年は優しくしてください。
今年も一年間、ありがとうございました。
皆様のご多幸を心からお祈りしております。
来年もこのブログを懲りずに覗きにきてくださいね。
マーケットの世界では、強気派はなんとなく単純で能天気、弱気派は慎重で地に足ついた知的な印象を持つ気がする。
ここ10年、20年日本を引っ張ってきた外需が簡単に復権するとも思ってない。
でも敢えて僕はこう宣言しておく。
「来年は強気だ。」
ぺこ