桓武天皇のあとをついだ平城天皇・嵯峨天皇も、
ひきつづき律令政治の改革を目指した。
しかし両者のあいだに争いがおこり、嵯峨天皇は810(弘仁元)年
平城上皇が復位と平城京への復都を企てて失敗した。
藤原薬子の変(平城上皇の変)*をきっかけに、政務上の機密事項を守るために
蔵人頭をおき、藤原冬嗣をこれに任命した。
その後も蔵人頭には天皇の側近が任じられ、
宮廷庶務の処理や天皇と太政官との連絡にあたった。

都の治安を維持するために検非違使が設けられ、
蔵人頭と検非違使は勘解由使などとともに律令に規定されていない官職→令外官

*薬子の変・平城上皇の変
「薬子の変」
嵯峨天皇の兄の平城上皇が国政に介入し、皇権が分裂した結果、
天皇は上皇の寵愛を受けていた藤原薬子を解宮、兄・藤原仲成を左遷した。
薬子は自殺、上皇は剃髪して決着をみた。
『日本後記』は、仲成・薬子兄妹に罪を着せた。
→近年は「平城上皇の変」ともよぶ。

租税性維持が次第に困難になり、
律令の原則をかえて現状にあわせる政策が多くなった。
823(弘仁14)年、大宰府の管内に口分田や、
あまりの田の6分の1をさき公営田を設けた。

公営田は村々の有力者を管理者として農民に食料と労賃をあたえて耕作させ、
彼らの租・調・庸にあたる分を差し引き、のこりを官の収入に。
→口分田や成人男子を中心に賦課した租税の体系を大きくかえるもの
同じような方式で、各官司の役人の給与にあてるため、
官田・諸司田などが設けられた。

律令で規定をあらためると、その施行細則としてのは、詔・勅・太政官符などの形で
その度に発布され、実際の政治をおこなう弘仁格式にまとめた。
清和天皇・貞観格式、醍醐天皇・延喜格式にひきづがれた三大格式
→律令につぐ貴重な法典
淳和天皇のとき、令の公式の解釈をしめした『令義解』も編集
光仁天皇のあとを継いだ桓武天皇
→新たな政治基盤を確立するため、寺院などの旧勢力の強い奈良から、
水陸交通の便利な山城の地を都に移すことを考え、
まず長岡京へ、ついで794(延暦13)年平安京へ遷都

源頼朝が鎌倉に幕府をひらくまで、
国政の中心が平安京にあった約400年間平安時代

天皇は律令体制をたてなおすためには、まず民生の安定につとめた。
徴兵による兵士は質が低下して役に立たないため、
全国の軍団をほとんど廃止し、
弓馬の巧みな郡司の子弟を健児とし、国司の役所である国衙をまもらせ、
班田収授を励行し、公出挙雑傜を軽減して農民の負担を軽くした。
国司の交代も、勘解由使をおいて監査するなど、地方官をきびしくとりしまった。

奈良時代の末から激しくなった蝦夷の反乱に対しては、
坂上田村麻呂征夷大将軍に任じて北上川の中流域までを平定させた。
田村麻呂はここに胆沢城をきずき、鎮守府多賀城からこの地に移した。

蝦夷討伐は一応の成果をあげたが、
征討の事業は新都の造営とともに財政を圧迫し、
農民を苦しめたので、中止せざるをえなかった。
天平時代の代表的な建築
唐招提寺金堂・東大寺法華堂(三月堂)・正倉院宝庫など

仏像
金剛像のほかに塑像乾漆像の技法が発達

塑像
東大寺法華堂:日光・月光菩薩像、
東大寺戒壇院:四天王像

乾漆像
法華堂:不空羂索観音像、
興福寺:八部衆像
など。

正倉院
聖武天皇の遺愛品を中心に、
宮廷で用いられた工芸品などが多くおさめられている(正倉院宝物)
唐ばかりでなく、唐を通じてもたらされたインド・ペルシア・アラビア・東南アジアなど
遠い異国のものや、外国の意匠をまねて日本でつくられたものも多い。


*仏像のつくり方*
日本の仏像は木像が多いが、飛鳥時代から金剛像もつくられている。
中子(中型)と外型の間に溶けた銅を流し込んで像をつくり、
表面に鍍金をしたもの。
天平時代の東大寺の大仏の場合は、8回にわかて鋳込みをしたという。

白鳳時代には塑像がはじまった。
木を芯にして上を粘土でかためたもの。
天平時代には塑像が流行したほか、新たに乾漆像がつくられた。
粘土や木で大体の形をつくり、上に麻布をはって漆でぬりかため、
できあがってから粘土などをぬいて軽くしたもの。

弘仁・貞観時代になると、木像とともに一木造の像が発達した。
仏像の頭部から胴体部にかけて、1本の木から掘りおこしたもので、、
干割れをふせぎ計量化をはかるために内刳りをほどこすことが多い。

平安後期には寄木造が流行。
像の各部分を分割shちえ別個につくり、
それらをはぎあわせて全体を完成させる方法。
分業による量産が可能で、小さな素材で大きな像をつくれるため、
仏像の大量需要に応じることができた。
天平年間東大寺国分寺が建てられたのは、
金光明最勝王教華厳経などの仏教経典にもとづき、
東大寺大仏を中心に国ごとに国分寺を配して、
天皇に統合される平安な国土を祈ったから。

奈良の寺院には、
南都六宗とよばれるようになる三論・成実・法相・倶舎・華厳・律
諸学派が形成され、仏典の研究がすすめられた。
入唐学問僧はもとより、
唐から日本へ戒律を伝え、唐招提寺をひらいた鑑真らのような
外来僧の活動も大きな力となった。

僧尼は鎮護国家のための法会・祈祷に専念させられ、
民間に道場を建て、直接に布教することは禁じられていた。

行基のように、農民のための灌漑用水や交通の施設を作るなどの
社会事業をすすめながら、布教につとめる僧もあらわれた。
教育機関として、中央には大学、諸国には国学がおかれ、
豪族や貴族の子弟を対象に儒教の経典を中心とする教育がおこなわれた。
詩文では淡海三船石上宅嗣らが知られ、
『海風藻』は7世紀以降の漢詩文を集めている。
和歌:山上憶良・山部赤人・大伴家持らの歌人があいついであらわれ、
『万葉集』が編さんされた。

『万葉集』には白鳳時代に集められた歌謡をはじめ、
律令国家建設をすすめた天皇・貴族の歌が多くのせられ、
東歌防人の歌のように、一般民衆の歌もひろくとりいれられた。