光仁天皇のあとを継いだ桓武天皇
→新たな政治基盤を確立するため、寺院などの旧勢力の強い奈良から、
水陸交通の便利な山城の地を都に移すことを考え、
まず長岡京へ、ついで794(延暦13)年平安京へ遷都

源頼朝が鎌倉に幕府をひらくまで、
国政の中心が平安京にあった約400年間平安時代

天皇は律令体制をたてなおすためには、まず民生の安定につとめた。
徴兵による兵士は質が低下して役に立たないため、
全国の軍団をほとんど廃止し、
弓馬の巧みな郡司の子弟を健児とし、国司の役所である国衙をまもらせ、
班田収授を励行し、公出挙雑傜を軽減して農民の負担を軽くした。
国司の交代も、勘解由使をおいて監査するなど、地方官をきびしくとりしまった。

奈良時代の末から激しくなった蝦夷の反乱に対しては、
坂上田村麻呂征夷大将軍に任じて北上川の中流域までを平定させた。
田村麻呂はここに胆沢城をきずき、鎮守府多賀城からこの地に移した。

蝦夷討伐は一応の成果をあげたが、
征討の事業は新都の造営とともに財政を圧迫し、
農民を苦しめたので、中止せざるをえなかった。