8世紀の文化平城京を中心にさかえ、
聖武天皇のときの年号をとって、天平文化とよばれている。
律令国家の支配層である貴族には、
国の歴史や国土・産物についての知識がもとめられるようになった。

712(和銅5)年にできた『古事記』は、天武天皇のとき古くから伝わる
『帝紀』『旧辞』稗田阿礼に命じてよみならわせたものを、
元明天皇太安麻呂(安万侶)に筆録させたもの。
720(養老4)年にできた『日本書紀』舎人親王らが中国の史書の体裁にならい
国家の正史として完成させたもの。

政府は713(和銅6)年、国ごとに土地の産物・地名の由来、
古老の伝聞などを記録し、言上するよう命じた。
これをうけて国司の報告したものが風土記で、
まとまったものとしては常陸・播磨・出雲・豊後・備前5か国のものが残っている。
8世紀初め、皇族・貴族の均衡がとれていた政治体制は、
藤原氏の進出でくずれはじめた。
藤原鎌足の子、藤原不比等は、律令体制の確立に力をつくす一方、
婚姻によって皇室との結びつきを強め、勢力をのばした。
不比等の死後、皇族勢力を代表する長屋王は藤原氏をおさえようとしたが、
不比等の4子(藤原四子)の策謀によって自殺させられた(長屋王の変)

藤原氏は、不比等の娘・光明子聖武天皇の皇后(光明皇后)にたてて権力をにぎった。
しかし藤原四子は疫病で死に、皇族出身の橘諸兄が政権をにぎった。
この政権に対し、藤原広嗣が大宰府で反乱をおこしたが、鎮められた(藤原広嗣の乱)

この間、長屋王のもとで722(養老6)年百万町歩の開墾計画がたてられ、
翌年には三世一身法が施行され、田地の不足をおぎなう政策がとられた。
三世一身法は、新たに土地をひらいた場合には、子から3代まで、
古い施設を利用してひらいた場合には本人一代だけに、
墾田の私有を認める
というものであった。
橘諸兄のもとで743(天平15)年墾田永年私財法が施行され、
開墾した土地は永久に私有することを認めた

貴族や寺社は、郡司などの地方豪族とむすんで開墾をすすめ、
また農民の墾田を買い集めて私有地をひろげ、ここに初期荘園がうまれた。
農民のなかには、天災や租税の負担にたえかね、口分田や家をすてて
浮浪・逃亡するものもあらわれた。

藤原広嗣の乱に際して、聖武天皇は平城京からぬけだし、
乱の平定後も、なお山城の恭仁、摂津の難波、近江の紫香楽と都を移したが、
この間、社会不安が深刻になった。
天皇は仏教の力によって政治・社会の動揺をしずめようとはかり、
741(天平13)年、国分寺建立の詔743(天平15)年、盧舎那大仏造立の詔をだした。
都が平城京にもどると、紫香楽宮ではじめられた東大寺の大仏造立の事業は
平城京に移され、10年後には大仏開眼供養がおこなわれた。

政治は安定せず、その後も藤原仲麻呂(恵美押勝)僧道鏡らによって政争がくりかえされた。
藤原仲麻呂は、橘諸兄の死後、祖父藤原不比等が編纂した
養老律令を施行するとともに、橘奈良麻呂をたおし、
淳任天皇から恵美押勝の名をたまわって、政治の実権をにぎった。
しかし孝謙上皇を看病して信任をえた道鏡と対立し、
これをのぞこうとして兵をあげたが、逆に敗死した。

道教は弓削氏の出身であったが、孝謙上皇の病をなおしたことから、
復位した称徳天皇の時代に、異例の法王に任じられ、仏教政治をおこなった。
豊前宇佐八幡宮神託と称して道教を皇位につけようとする事件がおこったが、
これに反対する藤原百川和気清麻呂らは、これをはばみ、
称徳天皇の死後、天智天皇の孫にあたる光仁天皇が即位すると、道鏡は下野国に追放された。
白村江の敗戦のあと、天智天皇のときから遣唐使は中断されていたが、
702(大宝2)年に復活。
8世紀の遣唐使は、日唐の政治関係が安定したため、
文化を輸入する使節としての役割を十分にはたした。
1回に4船、500人を超える大規模な使節団が編成され、
貴族や僧侶は海を渡るという危険にさらされながらも、
盛んな唐の文化を学び、
帰国するときは多くの漢籍仏典などをもちかえった。

7世紀の百済・高句麗の滅亡により、
朝鮮半島からは多くの亡命者が帰化した。
そのうち王族・貴族は政界で活躍し、
農民はおもに東国の開発にしたがった。

新羅との関係は、使節の往来は多かったが安定せず、
対等の外交を主張する新羅と、これを朝貢国として位置づけようとする
日本との間で、しばしば衝突がおこった。

中国の東北部におこった渤海は、唐・新羅と対抗する必要上、
日本に朝貢し、北方の毛皮などをもたらした。


*遣唐使
遣唐使は630年犬上御田鍬にはじまり、
我が国の文化に大きく貢献した。
遣唐使の旅は苦難に満ち、
食料も米を蒸して乾かした乾飯が主食。

航路は、8世紀はじめから、東シナ海を横断する南路か南東路をとったが、
船の構造も弱かったので、荒海を乗り切ることができず、しばしば遭難した。
吉備真備玄昉とともに入唐した阿倍仲麻呂も、その犠牲者であった。
仲麻呂は35年の滞在ののち、753(天平勝宝5)年、帰国の途についたが、
4隻の船のうち、彼の乗った船だけが安南(ベトナム)に漂着し、
再びへもどった。

「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」
という望郷の歌を残した。
文武天皇が若くしてなくなったあと、その母が即位して元明天皇となると、
710(和銅3)年平城京をきずき、藤原京からここに都を移した。
→律令国家の成長に合わせ、水陸の交通が便利で、
 宮都にふさわしい土地に都を移した。
都が平安京(京都)に移るまでの80年あまり→奈良時代

政府:その前後から支配領域の拡大につとめた。
8世紀初め、東北地方では陸奥国と越後国をわけて出羽国をおき、
出羽柵・多賀柵(のちの多賀城)などを設け、
九州南部でも、日向国をさいて大隅国を設け、
多褹島(種子島)なども領土に編入。
蝦夷隼人に対する統治もすすんだ。

農業では水田のほか、
粟・麦・豆などを植えるよう国司・軍司に指導させ、
鉱物資源についても、
陸奥の金、周防・長門の銅、近江・美作の鉄などの開発を進めた。
708(和銅元)年武蔵国からを産出すると、
年号を和同と改め、和同開珎という銭貨を鋳造し、蓄財叙位令などを発令し、
銭貨の流通をはかったが、まだ地方では稲や布が交易の手段として用いられた。

通路も都を中心に整備され、
約16㎞ごとに駅家を設ける駅政がしかれて、
都と地方の連絡にあたる官吏がこれを利用した。

*富本銭
1999(平成11)年に、奈良県飛鳥池遺跡富本銭とその破片など
33点が7世紀後半の地層から出土した。
→708年の和同開珎より古い事が明らかに。最古の銭貨か。
『日本書紀』683(天武12)年の記述に、
「今より以後、必ず銅銭を用いよ」とあり、
これが富本銭と考えられる。
「富本」とは後漢五銖銭を発行した際の
「富国の本は食貨に在り」の語句に由来か。
百済から漢字の教養を身につけた多くの王族・豪族が日本に渡ってきた影響もあって、
宮廷で漢詩文がさかんとなり、
大友皇子・藤原不比等らの作品が今に残されている。

漢詩文などの影響で日本の古い歌謡の形式がととのい、
和歌として五・七調長歌短歌が発達した。

また、それを記述するのに、漢字の音訓を用いる万葉仮名が定着した。

天智天皇・額田王柿本人麻呂らは、白鳳時代の宮廷の、
みずみずしく力強い雰囲気をうたいあげている。

柿本人麻呂の歌には
「やすみしし吾大王」「高照らす日の皇子」「皇は神にし坐せば」などという
言葉を用いて、天皇や皇子をたたえるものが多く、
天武・持統天皇のころに高まった天皇の権力を背景とする
時代の雰囲気を伝えている。