【伊達天文記】第44回 伊達実元の出陣 | 奥州太平記

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宮城を舞台にした歴史物語を描きます。
独眼竜こと伊達政宗を生み出すまでに
多くの群像が花開き、散っていた移り行く時間を
うまく表現できるように努めます。

とりあえずは、暖かい目で見守ってください。

蘆名盛氏あしな もりうじ が晴宗方についたことで、

戦の潮目が変わった。

 

晴宗方の支配地へ進軍を続けていた相馬顕胤あきたねであったが、

岩城重隆によって、海路から本拠を急襲されたため、

自国領へ戻らざるを得なくなった。

 

それによって稙宗方が手薄となった伊具いぐ刈田かった郡では、

国人衆が次々と晴宗方へと鞍替えしていったのである。

こうなると、稙宗方陣営の動揺は広がる一方である。

 

稙宗の娘婿の一人である田村隆顕たかあき の家中では、

この情勢によって稙宗派と晴宗派へと分裂した。

 

仙道にて田村隆顕と共に戦っていた塩松の石橋尚義ひさよし は、

晴宗へ使者を送り、晴宗方につくことを申し出たのである。

 

この晴宗方の優勢は、北の大崎家・葛西家にも影響を与えた。

葛西家へ養子入りしていた稙宗の子・晴清(幼名:牛猿丸)は、

先年(天文16年)に亡くなっていた。死因はわかっていない。

そのため葛西家中の親伊達派(稙宗方)の勢力は弱まり、

当主の晴胤は、これを機と捉え晴清の拠点・寺池てらいけ へ進軍していった。

 

各地から届く晴宗方優勢の報は、優柔不断な大崎義直をも勇気づけた。

義直は、大崎家へ養子入りした稙宗の子・義宣よしのぶ (幼名:小僧丸)を

討つべく、彼の拠点である不動堂へと軍を進めたのである。

 

そんな情勢の中、一人の若武者が悲壮の覚悟で出陣した。

稙宗の子の一人である伊達実元さねもと (幼名:時宗丸)である。

 

実元は越後守護・上杉定実さだざね の養子入りする予定であった。

だが晴宗は、その越後入りには多くの伊達家臣が同道するため、

残された伊達家臣団が弱体化するとして反対した。

これが天分の乱の発端となった。

 

そして今、この乱の遠因が自分にあると責任を感じている彼は、

父・稙宗の不利な情勢を打破すべく、勇んで出陣したのである。

 

兄・晴宗方が勢いを盛り返している伊具郡へと

進軍した実元であったが、彼一人の奮闘で

どうにかなるものではなかった。

風雪強まる冬で進退もままならず、

何も得られぬまま彼は西山城へと戻っていった。

 

自分にあてがわれた部屋に戻ると、

壁に目をやった。そこには上杉定実より

贈られた「竹に雀」の家紋が掛けられていた。

中央に向かい合う二羽の雀、それが今の彼には

敵対しているかのように感じられた。

 

すると知らず知らずのうちに、彼は泣いていた。

それは不甲斐ない戦ぶりをした悔しさによるものなのか、

父と兄が対立している状況を悲しんだものなのか、

それとも、この乱を招いた自分の存在を呪ったものなのか、

実元自身、その涙の意味が分からないのであった。