戦国時代、
大名は時には手を結び、時には敵対して
領土争いを繰り広げていた時代。
南奥州も例外ではなく、天分の乱の後、
その主役を担ったのは蘆名
盛氏は、甲斐の武田信玄と同じ年に生まれた。
信玄は、敵対する越後の上杉謙信を
牽制すべく会津・蘆名家と手を結んでいた。
一方で、蘆名盛氏は常陸の佐竹義重と激しく
対立しており、これを後背より牽制すべく
北条氏政と手を結んでいた。
武田信玄、上杉謙信、北条氏政、佐竹義重と
戦国を代表する大名たちと肩を並べる蘆名盛氏が、
天分の乱において存在感を強めたのは、
乱が起きてより5年が経った天文16年の時である。
稙宗は西山城を晴宗から奪還し、
仙道(福島県中通り地方)をもその支配下に収めた。
この状況に、稙宗方であった蘆名盛氏が危機感を覚えた。
数年前に軍事衝突した田村隆顕が、
会津から仙道への玄関口となる安積郡を支配するのは、
防衛上、非常に危険なのである。
盛氏はついに稙宗方から離れることを決断し、
家臣に対し次のように告げた。
「これより蘆名家は晴宗殿に味方し、
要請に応じて安積口へ出陣いたす。」
その知らせを聞いた晴宗方は歓喜し、
さっそく使者を会津経由で岩城家へ遣わし、
蘆名家と合わせて出陣するよう依頼したのである。
天文16年6月、
仙道(福島県中通り地方)を西より蘆名盛氏が、
南より岩城重隆が進軍してきた。
この報を聞いた稙宗が受けた衝撃は計り知れない。
会津が敵に回ること以上に、
稙宗がこれまで築き上げてきた婚姻による伊達版“奥州探題”体制を
蘆名盛氏がはっきりと否定したためである。
蘆名家が晴宗方へ鞍替えしたことによって、
稙宗陣営は混乱するが、稙宗の娘婿である相馬
だが、その相馬家に対し岩城重隆は海路より
相馬領を急襲したのである。
岩城領との陸続きの国境に兵を配置し、
兵が手薄となっていた本拠地を守るため、
やむなく顕胤は兵を戻すのであった。
それによって稙宗方の兵が手薄となった刈田・伊具郡の
国人衆たちは次々と晴宗方へと鞍替えしていったのである。
形勢は完全に晴宗方へと逆転したのである。