【伊達天文記】第42回 稙宗、西山城を奪回す。 | 奥州太平記

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宮城を舞台にした歴史物語を描きます。
独眼竜こと伊達政宗を生み出すまでに
多くの群像が花開き、散っていた移り行く時間を
うまく表現できるように努めます。

とりあえずは、暖かい目で見守ってください。

稙宗方の攻勢にさらされている本宮もとみや城を救出すべく、

晴宗の岳父・岩城重隆は、相馬領へ侵攻していた兵を一度戻し、

改めて仙道(福島県中通り地方)へと進軍させた。

 

だが、この一連の動きを読んでいた稙宗は、

仙道筋の諸将に岩城勢に備えて守りを固めさせていた。

 

さらに岩城家からの攻勢がなくなった相馬顕胤あきたねは、

すべての兵を引きつれ西山城攻撃に加わった。

この頼もしい娘婿・顕胤の援軍に力を得た稙宗は、

西山城への総攻撃を開始したのである。

 

晴宗方は、この攻勢を耐えに耐えた。

だが周りへ配慮する余力を奪われてしまった。

本宮城もまた、稙宗方によって孤立化してしまったのである。

 

稙宗は、晴宗方と岩城領との間に位置する本宮城を

奪取することで、両者の連携を遮断することを狙った。

二本松義氏は庶家の本宮宗頼を討伐するために、

田村隆顕たかあきは、これを機に仙道への領土拡大を狙って、

本宮城攻撃に加わっていた。

 

それぞれ異なる思惑をもった諸将であったが、

本宮城を落とすという目的が一致したことで、

稙宗方の士気は高く、攻勢は激しくなっていた。

 

本宮城の救援に向かっていた岩城軍は、

途上において稙宗方の砦・要塞に阻まれ、

思うように進軍することができなかった。

 

稙宗方による西山城と本宮城への攻勢は続き、

天文15年6月1日、ついに西山城が陥落した。

時同じくして6月3日、本宮城もまた畠山義氏によって陥落した。

 

本宮宗頼は岩城重隆を頼って南へと落ちていった。

ここで注目すべきは、晴宗のとった行動である。

西山城を脱出した晴宗は海路、岩城領へと向かおうとした。

 

だが、西山城以東の伊具いぐ郡・宇多うだ郡はすでに

相馬家に支配されていたため、これを抜けられず、

やむなく晴宗は、北の刈田かった郡にある白石城へと落ちていったのである。

 

西山城に入城した稙宗はよほど嬉しかったのか、

諸将へ送った書状の中に、西山城に帰“館”したと書いている。

その上で、攻勢をさらに強めるように働きかけたのである。

 

本宮城陥落の知らせに驚いた仙道の国人衆は、

次々と稙宗方へと降伏していった。

これによって稙宗は、安達郡・安積あさか郡を傘下に収め、

仙道筋を抑えたことで晴宗と岩城家の連携を遮断したのである。

 

情勢は稙宗方がより有利になっていた。

だが、これによってある決断をした者がいた。

会津の蘆名盛氏もりうじである。