【伊達天文記】第41回 それぞれの思惑 | 奥州太平記

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宮城を舞台にした歴史物語を描きます。
独眼竜こと伊達政宗を生み出すまでに
多くの群像が花開き、散っていた移り行く時間を
うまく表現できるように努めます。

とりあえずは、暖かい目で見守ってください。

天文の乱が勃発して3年が過ぎた。

 

稙宗の西山城奪還への望みは果てない。

娘婿の相馬顕胤あきたね の活躍により

宇多うだ郡、伊具いぐ郡へと稙宗方の勢力が拡大していき、

晴宗方は兵を分散せざるを得ない状況となってきた。

 

ここで稙宗を悩ます勢力は、岩城重隆であった。

重隆が晴宗方につくのは、晴宗が娘婿であり、

北に隣接する相馬家と敵対関係にあるからであった。

 

西山城周辺における情勢(以後、東部戦線と呼称)が

晴宗方の不利になっていく中にあって、

岩城家が執拗に相馬領へ侵攻してくるのは、

稙宗にとって非常に目障りなのであった。

 

そこで稙宗は、晴宗派と岩城家の使者が往来する

仙道(福島県中通り地方)を占拠し、両者の分断を図った。

その進軍に稙宗が期待したのは、娘婿の田村隆顕たかあき であった。

 

この頃、田村隆顕は西へと領土拡張を推し進め、

安積あさか 郡に続いて、岩瀬郡へと侵攻の機会を伺っていた。

そのため岩瀬郡の二階堂家とは対立関係になっており、

田村家は兵を稙宗の望む方面に向けることができなかった。

 

そこで稙宗は陸奥守護職として両者の仲立ちをし、

和睦させることに成功させたのである。

これによって兵を動かせるようになった田村隆顕は、

安達あだち 郡へと進軍していった。

 

安達郡において晴宗派は、本宮もとみや 城主・本宮宗頼だけであった。

宗頼は畠山家の庶家にあたり、

本家筋の二本松城主・畠山義氏とは敵対関係にあった。

 

そのこともあって稙宗方の畠山家の戦意は高く、

田村家の援軍と共に本宮城を激しく攻め立ててた。

 

これに悲鳴を上げた本宮宗頼は、しきりに晴宗へ援軍要請をした。

だが、晴宗方は置賜郡(以後、西部戦線と呼称)の奪還のため、

兵の多くを西へ割いており、東部戦線における兵力は十分でなかった。

 

また西山城より北においても、相馬家の攻勢もあって

晴宗方は守勢に回っており、その手当てのために中野宗時を

派遣して、退勢挽回に努めていたのである。

 

東部戦線の危機のため、置賜郡にいた晴宗自らが

西山城へ入城し、稙宗方の攻勢を防いでいた。

だが置賜郡において、一度は傘下に戻った国人衆の一部が

謀反の動きを見せるなど、まだ予断を許さない状況であったため、

兵の多くを西部戦線に留めねばならなかった。

 

兵力不足のため、本宮城に援軍を送れない晴宗は、

岳父である岩城重隆に頼らざるを得なかった。

 

岩城家にも事情がある。

北の相馬家と事を構えているだけでなく、

南の関東勢の動向にも注視しなければならず、

仙道まで兵を出す余裕がないのである。

 

東部戦線の戦況が芳しくない晴宗方は、

動向が読めぬ会津・蘆名盛氏に使者を送るのであった。

安積郡で田村と軍事衝突した蘆名家が、

必ずしも稙宗に心服していないと見たためであった。

 

ここにきて天分の乱は、伊達家の内乱から

各国人衆の思惑で動く戦国の様相を呈してきたのであった。