【伊達天文記】第40回 蘆名盛氏の動向 | 奥州太平記

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宮城を舞台にした歴史物語を描きます。
独眼竜こと伊達政宗を生み出すまでに
多くの群像が花開き、散っていた移り行く時間を
うまく表現できるように努めます。

とりあえずは、暖かい目で見守ってください。

天分の乱が勃発して半年がたった頃、

稙宗の娘婿の一人である田村隆顕たかあきが、

畠山義氏を援助するため二本松城へ進軍した。

そこで田村・畠山軍は、晴宗派を撃ち破ったが、

ここで一つの事件が生じた。

 

隆顕は余勢をかってさらに西の安積あさか郡へと侵入した。
この安積郡は、会津と仙道(福島県中通り地方)との

玄関口にあたる交通の要衝である。

 

この頃、安積郡には有力な領主が存在しなかったため、

周囲の有力国人衆に蚕食さんしょくされる状況になっていた。

すでに蘆名家は安積郡の西部を支配下に収めており、

残る東部も領有するつもりでいた。

 

東に隣接する田村家はそれを阻むべく、

蘆名家よりも先に安積郡東部への侵攻を狙っており、

二本松城への進軍は、まさに好機だったのである。


そのため、蘆名家の支配下にあった安積郡の領主らは、

同じ稙宗派である田村家であっても、これを敵と判断して、

迎撃を試みたが、敗退してしまった。

 

敗れた蘆名家傘下の領主たちは、直ちに黒川城へ使者を送った。

蘆名盛舜もりきよ盛氏もりうじ父子は、田村家の安積郡への進軍は、

明確な蘆名領への侵攻であると判断した。

 

しかし、ここで思いもよらないことが生じた。

会津国内の有力国人衆である山ノ内、河原田の両家が

この状況に付け込んで蘆名家に対し反旗を翻したのである。

国内の治安を優先した蘆名家は、盛舜・盛氏が

それぞれ軍を率いて鎮圧へ向かった。

蘆名方は大将の一人である種橋藤十郎が討ち死にするも、

戦局を有利に展開し、山ノ内・河原田両家を改めて

支配下に収めることに成功したのである。
 

この50年後、蘆名家は独眼竜政宗率いる伊達家に

摺上原すりあげはらの戦いで敗れ滅亡します。この時、黒川城に入城した政宗へ

降ることを潔しとせず最後まで抵抗したのが山ノ内・河原田両家でした。

半世紀の間に両家が蘆名家に心服していたことがわかります。

 

山ノ内・河原田両家の謀反を鎮圧した蘆名盛氏は、

安積郡に居座る田村家を追い出すべく出陣の準備を始めた。

 

ところが、ここで稙宗より両家に和睦を促す使者が来たのである。

そのため盛氏は、田村家の安積郡への駐留を認めた形で

和睦をせざるを得なかったのである。

 

そんな不満を覚えている蘆名盛氏の元に

晴宗方の使者がひそかにやってきたのであった。