【伊達天文記】第39回 会津の蘆名家 | 奥州太平記

奥州太平記

宮城を舞台にした歴史物語を描きます。
独眼竜こと伊達政宗を生み出すまでに
多くの群像が花開き、散っていた移り行く時間を
うまく表現できるように努めます。

とりあえずは、暖かい目で見守ってください。

稙宗の娘婿全員が加わった天分の乱であるが、

その中で最も力のある蘆名あしな 盛氏は、

あまり目立った行動をとっていなかった。

 

蘆名家。

その初代は佐原義連よしつら である。

彼は源頼朝の奥州藤原氏討伐に参加し、

その軍功により会津の一部を与えられた。

 

会津は北会津・南会津・耶麻やま大沼おおぬま河沼かわぬま の5郡からなっており、

蘆名家同様に奥州征伐で功のあった長沼・山ノ内・河原田家等が、

会津内に所領を与えられたのである。

 

そして代を重ねる中で、蘆名家が会津において、

頭一つ抜きんでた存在となっていった。

 

盛氏の父・盛舜もりきよ が蘆名家を相続したのは、

天分の乱が起こる20年ほど前の大永元年(1521)である。

盛氏はこの年に誕生している。

 

蘆名家は会津地方全体のあるじ ともいえる立場にあったが、

それを良しとしない勢力はなお存在していた。

盛舜は、自分を蘆名家当主と認めない家臣や

蘆名家一族である猪苗代家の謀反を鎮圧し、

さらにその隙を突いて兵をあげた長沼家を討伐した。

 

家督相続の混乱に乗じた一連の騒動を抑えた盛舜は、

会津内の国人領主との主従関係をより進めていった。

会津国内が安定すると、盛舜は国外へと勢力を広げていった。

西は越後・津川城を拠点として(越後)小川庄を傘下に収め、

東は岩瀬郡の城を落としていった。

 

 

また盛舜は、若年ながら嫡男・盛氏に他国との

外交交渉を任せるなどして、次代当主の育成にも努めた。

 

盛舜が家督を譲ったのは天文10年、盛氏が21歳の時である。

その翌年に天分の乱が生じた。

盛氏は稙宗の娘婿であったため、稙宗方として活動した。

 

まず行ったのは、会津の東に隣接する岩瀬郡にある

蘆名領内の森ケ崎城(長沼城)の改築であった。

岩瀬郡は二階堂家の領土であったが、盛氏の祖父・盛高もりたか の代に

その西部を蘆名家の領土にしたのであった。

 

会津から岩瀬郡へ出るには黒森峠・勢至堂せいしどう 峠を越えなければならず、

森ケ崎城はまさに仙道(福島県中通り地方)への橋頭保だったのである。

 

そして同じく会津にとって仙道への玄関口となる安積あさか 郡において

一つの事件が生じたのであった。