【伊達天文記】第38回 摩利支天の化身・相馬顕胤 | 奥州太平記

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宮城を舞台にした歴史物語を描きます。
独眼竜こと伊達政宗を生み出すまでに
多くの群像が花開き、散っていた移り行く時間を
うまく表現できるように努めます。

とりあえずは、暖かい目で見守ってください。

天分の乱が終息するのは天文17年であるが、

その年、越後においても歴史の転換点を迎える。

越後守護代・長尾晴景は、家督を弟・景虎に譲ったのである。

 

長尾景虎(後の上杉謙信)が自らを戦の神“毘沙門天”の

化身と称していたことはよく知られている。

そして同じ時代、武神“摩利支天”の化身と恐れられた武将がいた。

それが相馬顕胤あきたね である。

 

顕胤は相馬家の家督を若干14歳で継いだが、

その3年後に南に隣接する岩城家と戦った。

その戦場における顕胤の武将としての振る舞いは際立っていた。

 

戦場で手柄を立てた者には、その者の名を呼び

「そちの働き確かに見届けたぞ」と称え、

不利な戦況と見るや自ら切り込み味方を鼓舞するのである。

その頼もしき姿を見た相馬家臣らはいつしか顕胤を

相馬家が守護神として敬う“摩利支天”の化身と信ずるようになった。

 

天文14年、相馬顕胤は、北に位置する宇多うだ 郡に侵攻した。

これより90年ほど前、宇多郡は白河の結城(白川)家の飛び領地であった。

この宇田郡をめぐって相馬家は懸田かけた 家と共に白川家と争ったが、

当時の伊達家当主・持宗の仲裁によって白川家に有利な条件で和睦した。

 

その白川家が衰退し、宇多郡は伊達家の所領となっていた。

そして今、相馬顕胤は岳父・稙宗の要請により

晴宗方を駆逐するため、因縁の地へ進軍したのである。

 

西の置賜郡の平定に注力していた晴宗は、

伊達勢だけでは防げないと判断し、岳父である岩城重隆に

南より相馬領を衝くよう要請したものの結局、間に合わなかった。

 

ここに相馬顕胤は、行方なめかた標葉しねは ・宇多の3郡を支配下に置き、

後の戦国大名・相馬家(4万8千石)の礎を築いたのである。

 

さらに顕胤は余勢をかって

宇多郡の西隣に位置する伊具郡へ侵攻し、

阿武隈川の東側地域(東根)を制圧してしまったのである。

 

 

これを喜んだ稙宗は、娘婿である顕胤を頼って、

相馬家の小高城に拠点を移したのである。

そして自分の居城であった西山城奪還を改めて目指すのであった。

 

西側の置賜郡に兵力の多くを向けていた晴宗方としては、

東側の西山城周辺への稙宗方の攻勢は覚悟していたが、

相馬顕胤の猛威は予想を超えるものであった。

 

それは、晴宗が岩城重隆へ送った書状の中に

「宇多、東根は相馬に取られ、

 今、西根(阿武隈川西岸)まで艱難かんなん がおよぼうとしている。」

と弱音を書いてしまったことからもわかる。

 

晴宗は、反撃体制を整えるために中野宗時を東へ派遣する。

稙宗もまた更なる攻勢をかけるため近隣諸将へ働きかけるのであった。

 

そしてここに、天分の乱において天王山とも言える

本宮もとみや 城をめぐる戦いが始まるのであった。