【伊達天文記】第37回 晴宗、置賜郡の奪回を目指す | 奥州太平記

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宮城を舞台にした歴史物語を描きます。
独眼竜こと伊達政宗を生み出すまでに
多くの群像が花開き、散っていた移り行く時間を
うまく表現できるように努めます。

とりあえずは、暖かい目で見守ってください。

天分の乱が勃発してよりの3年は、

稙宗方の攻勢を晴宗方が何とかしのいだ月日だった。

その間、北の大崎家、葛西家もまた内乱となり、

戦乱は南奥州一帯に広まったのである。

 

大崎義宣よしのぶの南下を阻止した晴宗方は、

西山城に駐留していた兵の多くを西へと向かわせた。

狙いは最上家の占領下にある置賜郡の奪回であった。

 

この頃の置賜郡は、人口・収穫高ともに

伊達家本拠である信夫しのぶ・伊達郡に勝っていた。

そのことも踏まえて中野宗時が、宿老会議の場で

今後の展望について説明した。

 

「殿(晴宗)の元には、これまで伊達家の行政に携わってきた被官の

 多くが付き従っています。これは大殿(稙宗)にはないものです。

 伊達家本貫の地である信夫・伊達郡は、この戦によって荒れ

 収穫が落ちることは避けられません。

 

 そこで、置賜郡をこれからの伊達家の中心地とすべく

 伊達家被官らを郡内各地に配させ、殿の治める地を

 内より充実させれば、大殿に対抗できるのです。」

 

これは皮肉な結果であった。西山城は、奥州玄関口である白河より

北へ通じる(奥州)街道が羽州街道に分岐する追分おいわけ地点である。

稙宗による南奥州支配にとって、これほどふさわしい拠点はなかった。

 

だがこの内乱によって、晴宗方が大崎・葛西・最上家を

支配下に収め続けることは難しくなったため、

伊達家の拠点を西山城にする必要がなくなったのである。

 

とはいえ、西山城のある伊達郡はその名の通り、

伊達の名の発祥地である。先祖伝来の地を離れることは、

人情としてできるものではなかった。

 

だが、稙宗が戦備を整え、再び攻勢をかけてくることは明白で、

それを撃退できる自信が、牧野宗興むねおきを喪った晴宗方にはなかった。

そういった現実問題が、桑折こおり景長を始めとする晴宗方諸将を

中野宗時の提案に賛同させたのであった。

 

「宗時、新たな本拠地としては置賜郡のどこがふさわしいか。」

と問う晴宗に宗時は、

「米沢がふさわしいと存じます。」

と答えるのであった。

 

晴宗方は新たな戦略方針の元、兵の多くを置賜郡に向けたのであるが、

手薄となった西山城は当然、稙宗方に奪われる危険性が高まった。

つまり、この軍の配置換えは晴宗方にとって、大きな賭けであった。

 

西山城を出た晴宗は、(現在の福島 - 米沢間にある)板谷峠に陣を構えた。

晴宗としては、今後のことを考えて置賜郡を無傷で手に入れたかった。

そこで稙宗方に属している国人衆に、晴宗方につくように呼びかけた。

 

そのうえで進軍を開始し、稙宗方の根拠地である成田へと迫っていった。

成田に陣を構えていた稙宗方の上郡山かみこおりやま為家は、この地が守るには不利と考え、

自分の本拠地である小国おぐにへと撤退したのである。

 

この成田のすぐ北には、稙宗方の有力国人である鮎貝家の居城があるが、

鮎貝盛宗は中野宗時との密約を守り、静観の姿勢を保っていたため

晴宗は兵を差し向けなかったのである。

 

この一連の動きの後、置賜郡の国人衆は次々と晴宗方へと

鞍替えしていった。これによって置賜郡は再び晴宗方の

手中に収まっていくのである。

 

米沢に新たな根拠地を築く足がかりができた晴宗であったが、

西山城を中心とした東の戦況は、稙宗方が有利になりつつあった。

その中心となったのが、相馬顕胤あきたねであった。