【奥州探題史】第65回 内野の戦い | 奥州太平記

奥州太平記

宮城を舞台にした歴史物語を描きます。
独眼竜こと伊達政宗を生み出すまでに
多くの群像が花開き、散っていた移り行く時間を
うまく表現できるように努めます。

とりあえずは、暖かい目で見守ってください。

 明徳2年(1391) 12月晦日の早朝、

侵攻する山名氏を京の各方面口に配置した諸将が

迎撃する形で、「内野の戦い」の火蓋が切られた。

 

 まず内野の南東に配置していた大内義弘軍に

山名氏清軍の先鋒が突入を開始した。幕府において

武勇に秀でた山名家中でも最強を誇る氏清軍である。

 氏清の弟・義数率いる先鋒は、数に勝る大内軍の

陣を突破すべく遮二無二に突撃を繰り返す。だが、

大内義弘は最前面の陣を入れ替し、耐えていた。

 

 その間、内野の西より山名氏当主満幸率いる軍が

突入を開始し、管領細川頼元が迎撃を開始した。

途中、畠山勢が加勢し、戦況は膠着状態となった。

 

 その頃、京の南・八幡に陣を布いていた山名 義理 よしまさ は、

開戦前に来着した将軍・義満の使者のために、

将軍家に刃を向けることに 躊躇 ためら いを覚え始めていた。

 

 八幡の敵陣に動きがないことを見て取った義満は、

本陣に待機していた 馬廻 うままわり 衆2千騎余を

敵総大将・満幸軍へ向わせたのである。

 

 山名満幸軍は、細川・畠山の軍と激戦を繰り広げていたが、

馬廻衆の突撃を側面から突かれる形で許してしまい、

軍は瓦解し始め、ついに退却を余儀なくされた。

 

 細川・畠山軍に追撃された満幸軍はほうほうの体で

丹波へ敗走していったのである。また、加勢に来た馬廻衆は

将軍をお守りするため本陣に取って返したのである。

 

 京へ侵攻する山名氏3軍のうち、満幸軍は敗走し、

義理軍は日和見を決め込んだため、山名氏清の軍

のみで幕府全軍を相手することとなった。

 

 歴戦の将である氏清はこの戦況を把握し、武門・山名氏を

天下に披露すべく、この地を死に場所と定めた。その気迫が

配下に伝わり、氏清軍は死兵と化したのである。

 

 氏清軍の先鋒を任されていた山名義数は、ついに

大内氏の厚い壁を突破し、義満のいる本陣へ突入を試みたが、

そこに立ちはだかった馬廻衆によって討ち取られたのであった。

 

 義満は、残る氏清を討つべく残る全軍を差し向けた。 

大内義弘と入れ替わる形で、赤松義則の軍が

内野に接近してきた氏清本軍と交戦を開始した。

 

 この時、馬廻衆にいた山名氏の前当主・ 時熙 ときひろ は、

義満の前にまかり出て、「この戦いは、元々我が山名氏の

内輪もめが原因で起きたものであれば、できれば我が手で

けりをつけとうございます」と出陣の許可を求めたのである。

 

 その心意気や良しと、義満は前線に向うことを許した。

欣喜雀躍 きんきじゃくやく した山名時熙は手勢53騎を引きつれ、

山名氏清本陣へ矛先を向け突入していったのである。

 

 汚名返上とばかりに死を厭わぬ突撃をする時熙軍と

死兵と化した氏清軍の同族対決は、他者を寄せ付けぬ気迫を

発し、他家の兵は思わず手を止め見守るしかなかった。

 

 だが数で圧倒する氏清軍は、わずか50騎ばかりの

時熙軍をついに壊滅させたのであった。

 

 時熙軍郎党たちは身を てい し、御大将を脱出させんと奮戦し、

滑良 なめら 兵庫助にいたっては全身に刀傷・矢傷を負いながら、

「戦い疲れ苦しいから、心静かに休ませろ。では往生するわ」と

絶命したのであった。

 

 時熙軍の後退によって、幕府諸軍は攻撃を再開した。

だが、氏清率いる軍は怯むことなく逆に敵軍を押し返していく。

 

 疲労 困憊 こんぱい した赤松軍に替わり、斯波軍の攻撃が開始された。

 

 だが氏清軍はその斯波軍にも喰らいつき、大将である

斯波義重の鎧兜が切り刻まれる有様であった。ここで

斯波軍に替わり、一色軍が氏清軍と刃を交えることとなった。

 

 鬼神のごとき氏清軍将兵に傷のないものはない。さしもの最強と

うたわれた氏清軍も人である。早朝から戦い続け、日は中天を回り、

鎧の重さが増していくかのように動きが鈍くなっていった。

 

 そしてついに、総大将・氏清が一色氏によって討ち取られた。

相前後して山名氏一族の主だった諸将が相次いで討ち取られ、

氏清軍は崩壊していったのである。

 

 唯一、謀反軍に参軍した氏清の甥・山名氏家だけは脱出に

成功するものの、その多くが大将・氏清と共に果てたのである。

 ここに半日の激闘を繰り広げた「内野の戦い」は、

山名氏の敗北で幕を閉じるのであった。

 

 次回、明徳の乱後の幕府の対応について

   「明徳の乱 戦後処理」で書きます。