内野の戦いの後、討ち取られた山名氏清の
前にした将軍・義満は、参列する諸将に対し、「見よ、天意に
逆らいし哀れなる者の末路を」と語り、悲しげにそれを眺めた。
山名氏の脅威に危機感を募らせていた義満ではあったが、
氏清個人に対しては、南朝討伐など幕府に十分貢献し、
将軍位を軽んじ無かったため、頼もしき人物と思っていた。
この戦が終わった後、義満はこの戦いで死んだ者たちを
敵味方分け隔てることなく悼み、近隣から千人を超える僧侶を
呼び集め、10日間に亘ってお経を
さらにこの10日間の読誦を毎年の恒例行事として執り行わせ、
そのための大堂を建立し、
名づけたのであった。
さてこの戦において、
終戦後に幕府へ嘆願を行ったが、その卑怯な振舞いを
激怒した将軍・義満は大内義弘に討伐させたのであった。
一方で戦の直前に、家臣の哀訴のため止むを得ず
山名軍に合流した山名氏家は、氏清軍の一員として、
敢闘したことが逆に義満に好感を与え、
山名氏総大将たる満幸は、丹波[京都]から因幡[鳥取]へと
逃れ行方をくらましていたが、その後に京で
潜伏していたところを捕縛され、斬首されるのであった。
ここに11ヶ国の守護国を有していた山名氏は討伐され、
幕府方として戦った山名
守護国を安堵され、8ヶ国は没収されたのである。
こうして幕府最大勢力であった山名氏討伐に成功し、
南北朝合一への道が拓けて安堵したためか、
細川頼之が軽い風邪が原因で床に伏せることになった。
見舞いに来た義満に対し、死が近いことを感じ取った
頼之は、「死ぬまでに上様を軽んじる挙動をしていた山名氏を
討伐した今、何も心残りはありません。」と穏やかに語ったという。
ここに義満を支え、室町幕府の統治基盤を磐石にした
名宰相・細川頼之は没したのである。享年64歳であった。
京の兵乱が収まる頃、東国においても10年以上にも亘り
鎌倉府に反乱していた小山氏も鎮圧されつつあった。
明徳の乱より5年後の応永3年(1396)、下野「栃木]の挙兵を
鎮圧された小山若犬丸は奥州の田村氏の下に逃げ込んだ。
だが奥州統治権を任された鎌倉府は、追撃の手を緩めなかった。
鎌倉公方・足利氏満は東国10ヶ国からなる大軍を引き連れ、
白河[福島]の結城氏領地へ進軍した。それを聞き、新田一族を
始めとする南朝遺臣が小山氏の軍へ合流した。
だが白河に滞陣する鎌倉公方軍の大兵力に驚いた小山軍は
士気阻喪し、兵が散り散りとなってしまった。これを確認した
公方・氏満は戦うことなく鎌倉へ帰陣したのである。
その後、会津[福島]に落ち延びていた小山若犬丸は、会津の
国人・
鎌倉府は見せしめのために2人を海に沈め殺害したのである。
ここに京・東国と新たな支配体制が整い、
新たな局面を迎えるのであった。
次回、室町幕府の宿願であった
「南北朝の合一」について書きます。