【奥州探題史】第66回 明徳の乱 戦後処理 | 奥州太平記

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宮城を舞台にした歴史物語を描きます。
独眼竜こと伊達政宗を生み出すまでに
多くの群像が花開き、散っていた移り行く時間を
うまく表現できるように努めます。

とりあえずは、暖かい目で見守ってください。

 内野の戦いの後、討ち取られた山名氏清 御首級 みしるし

前にした将軍義満は、参列する諸将に対し、「見よ、天意に

逆らいし哀れなる者の末路を」と語り、悲しげにそれを眺めた。

 

 山名氏の脅威に危機感を募らせていた義満ではあったが、

氏清個人に対しては、南朝討伐など幕府に十分貢献し、

将軍位を軽んじ無かったため、頼もしき人物と思っていた。

 

 この戦が終わった後、義満はこの戦いで死んだ者たちを

敵味方分け隔てることなく悼み、近隣から千人を超える僧侶を

呼び集め、10日間に亘ってお経を 読誦 どくしょう させたのである。

 

 さらにこの10日間の読誦を毎年の恒例行事として執り行わせ、

そのための大堂を建立し、   願成就寺 がんじょうじゅじ         経王堂     (     きょうおうどう     )  

名づけたのであった。

 

 さてこの戦において、 日和見 ひよりみ を決め込んだ山名 義理 よしまさ は、

終戦後に幕府へ嘆願を行ったが、その卑怯な振舞いを

激怒した将軍・義満は大内義弘に討伐させたのであった。

 

 一方で戦の直前に、家臣の哀訴のため止むを得ず

山名軍に合流した山名氏家は、氏清軍の一員として、

敢闘したことが逆に義満に好感を与え、 ゆる されたのである。

 

 山名氏総大将たる満幸は、丹波[京都]から因幡[鳥取]へと

逃れ行方をくらましていたが、その後に

潜伏していたところを捕縛され、斬首されるのであった。

 

 ここに11ヶ国の守護国を有していた山名氏は討伐され、

幕府方として戦った山名 時熙 ときひろ 氏之、そして赦された氏家のみに

守護国を安堵され、8ヶ国は没収されたのである。

 

 こうして幕府最大勢力であった山名氏討伐に成功し、

南北朝合一への道が拓けて安堵したためか、

細川頼之が軽い風邪が原因で床に伏せることになった。

 

 見舞いに来た義満に対し、死が近いことを感じ取った

頼之は、「死ぬまでに上様を軽んじる挙動をしていた山名氏を

討伐した今、何も心残りはありません。」と穏やかに語ったという。

 

 ここに義満を支え、室町幕府の統治基盤を磐石にした

名宰相・細川頼之は没したのである。享年64歳であった。

 

 京の兵乱が収まる頃、東国においても10年以上にも亘り

鎌倉府に反乱していた小山氏も鎮圧されつつあった。

 

 明徳の乱より5年後の応永3年(1396)、下野「栃木]の挙兵を

鎮圧された小山若犬丸奥州田村氏の下に逃げ込んだ。

だが奥州統治権を任された鎌倉府は、追撃の手を緩めなかった。

 

 鎌倉公方・足利氏満は東国10ヶ国からなる大軍を引き連れ、

白河[福島]の結城氏領地へ進軍した。それを聞き、新田一族

始めとする南朝遺臣が小山氏の軍へ合流した。

 

 だが白河に滞陣する鎌倉公方軍の大兵力に驚いた小山軍は

士気阻喪し、兵が散り散りとなってしまった。これを確認した

公方・氏満は戦うことなく鎌倉へ帰陣したのである。

 

 その後、会津[福島]に落ち延びていた小山若犬丸は、会津の

国人・ 芦名 あしな 氏に捕えられ自刃し、その遺児2人は鎌倉へ送られた。

鎌倉府は見せしめのために2人を海に沈め殺害したのである。

 

 ここに京・東国と新たな支配体制が整い、

新たな局面を迎えるのであった。

 

 次回、室町幕府の宿願であった

  「南北朝の合一」について書きます。