義満が3代将軍に就任する頃、幕府直属の軍が
存在しなかった。それは、かつて足利氏を支えた一族が
それぞれ守護領地をもち、独立したことが要因である。
そこで細川頼之が管領に就任した際、義満の親衛隊
とも言える
幕府の直轄領とした山城 [京都] から確保した。
康暦の政変後、京を中心とした物流経済により増収した
(金銭の税収)によって馬廻衆の規模も拡大していき、山名氏を
討伐する明徳の乱には、3千騎を保有するまでになっていた。
この馬廻衆という常駐軍の存在が、義満をして
山名氏を挑発する行為を可能にさせたのであるが、
さすがに挙兵の詳細までは把握できずにいた。
だが京に滞在していた山名
家臣達の説得により一族と合流することを決意し出奔した。
このことが幕府の
山名氏の挙兵が近いことを察知した義満は、近隣諸将に
京への緊急召集をかけた。その軍が続々と上京する中で、
丹後[京都]や河内[大阪]から「山名氏謀反」の報が伝わったのである。
ついに山名氏は3方向より京へ侵攻を開始したのである。
まず丹波方面より当主・満幸が進軍。和泉[大阪]方面より長老格・
氏清が八幡に、そして河内方面より
一方、京には細川頼之・頼元、斯波
大内義弘、赤松義則、畠山氏、今川氏、一色氏、京極氏など
義満の召集令に応じて、多くの諸将が参陣してきた。
京における軍議において、抗戦論と和解論とに意見が分かれ
紛糾したが、義満の「当家の運が山名家に勝ることを天下の
衆目に明らかにすべし」との一言によって決戦することとなった。
さらに古来より攻めるに易く守るに難いと言われる京から
離れることを諸将より進言されると、「朝敵でもない、たかが
家来の鎮圧にその必要なし」と義満は一笑に付したのであった。
洛中においての迎撃案が決まるや、京の各方面口へ
諸将の布陣を定めていった。南西面に細川・赤松勢、
南東面に斯波・大内勢、北面に畠山・京極勢が配置された。
馬廻衆を中心とした本陣は東寄り中央に鎮座し、
義満は将軍家伝来の大鎧「小袖」でなく、動きやすい鎧を
着用することで山名氏を飲んでかかっていた。
ここで天王寺に布陣する山名義理に戦意がないことを
見て取った義満は、翻意を促す使者を遣わした。義理は、
拒否したものの、戦いに迷いが生じることとなった。
明徳二年(1391) 12月
南東方面口において山名氏清軍の先鋒と大内義弘軍が激突した。
内野の戦いが始まったのである。
次回、合戦模様を
「内野の戦い」 で描きます。