【奥州探題史】第64回 開戦前夜 | 奥州太平記

奥州太平記

宮城を舞台にした歴史物語を描きます。
独眼竜こと伊達政宗を生み出すまでに
多くの群像が花開き、散っていた移り行く時間を
うまく表現できるように努めます。

とりあえずは、暖かい目で見守ってください。

 義満が3代将軍に就任する頃、幕府直属の軍が

存在しなかった。それは、かつて足利氏を支えた一族が

それぞれ守護領地をもち、独立したことが要因である。

 

 そこで細川頼之が管領に就任した際、義満の親衛隊

とも言える 馬廻 うままわり を組織し、運営に必要な糧米・人材は、

幕府の直轄領とした山城 [京都] から確保した。

 

 康暦の政変後、京を中心とした物流経済により増収した段銭 たんせん

(金銭の税収)によって馬廻衆の規模も拡大していき、山名氏を

討伐する明徳の乱には、3千騎を保有するまでになっていた。

 

 この馬廻衆という常駐軍の存在が、義満をして

山名氏を挑発する行為を可能にさせたのであるが、

さすがに挙兵の詳細までは把握できずにいた。

 

 だが京に滞在していた山名 氏家 うじいえ が叔父・ 氏清 うじきよ 、そして

家臣達の説得により一族と合流することを決意し出奔した。

このことが幕府の 細作 さいさく 網に引っかかったのである。

 

 山名氏の挙兵が近いことを察知した義満は、近隣諸将に

京への緊急召集をかけた。その軍が続々と上京する中で、

丹後[京都]や河内[大阪]から「山名氏謀反」の報が伝わったのである。

 

 ついに山名氏は3方向より京へ侵攻を開始したのである。

まず丹波方面より当主・満幸が進軍。和泉[大阪]方面より長老格・

氏清が八幡に、そして河内方面より 義理 よしまさ 天王寺に布陣した。

 

 

 一方、京には細川頼之・頼元斯波 義将 よしゆき の嫡男・義重

大内義弘赤松義則畠山氏今川氏一色氏京極氏など

義満の召集令に応じて、多くの諸将が参陣してきた。

 

 京における軍議において、抗戦論と和解論とに意見が分かれ

紛糾したが、義満の「当家の運が山名家に勝ることを天下の

衆目に明らかにすべし」との一言によって決戦することとなった。

 

 さらに古来より攻めるに易く守るに難いと言われる京から

離れることを諸将より進言されると、「朝敵でもない、たかが

家来の鎮圧にその必要なし」と義満は一笑に付したのであった。

 

 洛中においての迎撃案が決まるや、京の各方面口へ

諸将の布陣を定めていった。南西面に細川・赤松勢、

南東面に斯波・大内勢、北面に畠山・京極勢が配置された。

 

 馬廻衆を中心とした本陣は東寄り中央に鎮座し、

義満は将軍家伝来の大鎧「小袖」でなく、動きやすい鎧を

着用することで山名氏を飲んでかかっていた。


 ここで天王寺に布陣する山名義理に戦意がないことを

見て取った義満は、翻意を促す使者を遣わした。義理は、

拒否したものの、戦いに迷いが生じることとなった

 

明徳二年(1391) 12月晦日みそかの明け方、

南東方面口において山名氏清軍の先鋒と大内義弘軍が激突した。

内野の戦いが始まったのである。

 

 次回、合戦模様を

   「内野の戦い」 で描きます。