北畠顕家編ー第30回 多賀城包囲網 | 奥州太平記

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宮城を舞台にした歴史物語を描きます。
独眼竜こと伊達政宗を生み出すまでに
多くの群像が花開き、散っていた移り行く時間を
うまく表現できるように努めます。

とりあえずは、暖かい目で見守ってください。

翌興国2年(1341)の春。
北畠顕信は、
南部政長(まさなが)に南下を命じた。

そして、同時に葛西氏には北上を命じた。
これにより、足利方和賀氏を南北から挟撃し、
多賀城以北を南朝勢力下にすることを狙った。

しかし、ここに思わぬ事態が生じた。
和賀氏が内部分裂を起こしたのである。
この時、北朝側は和賀氏宗家と鬼柳氏であった。
一方、南朝側に与したのは分家の西和賀氏で、
領地は西和賀地方から奥羽山脈を隔てて
出羽・仙北地方(秋田県)にまで及んだ。


 図 興国元年(1340) 東北地方における勢力図

この和賀氏内乱に乗じて、西和賀氏を支援する形で
南部氏が武力介入を行った。
北朝方の和賀氏も
栗屋河(厨川:くりやがわ)において対峙するも、
騎馬隊を主軸とする南部軍が相手では分が悪かった

瞬く間に北朝方・和賀氏を打ち破った政長は、
そのまま南下していったのである。
この勢いに押されるように
多賀城の北東に位置する葛西氏も動き出す。

そして北畠顕信自身は、
三迫(さんのはざま)[宮城と岩手の県境]に砦を築き、
南下する南部氏と合流した後、
多賀城奪還に向けて手筈を整えていった。

まず顕信は配下の一部を割いて
多賀城南部の伊具庄に派遣し、
南北挟撃の体勢を作った。
そのうえで顕信は、白河結城親朝に援軍要請を行った。

だが、結城氏は動かなかった。

そしてこの年の秋、
常陸(いばらき)小田城
3年にもおよぶ籠城の末、
ついに北朝に降伏したのである。

小田城にいた北畠親房は、
落城前に常陸・関城に落ち延び、
なお抗戦を続けているが、
形勢が不利に傾いたのは明白だった。

そこに、時機を見計らったように
北朝方・奥州侍大将の石塔(いしどう)義房(よしふさ)は、
津軽曾我氏に南部氏領への侵攻を命じたのである。

この報に接した三迫に駐在していた南部氏は、
領国に戻り、曽我氏に対応することとなった。
そのため、顕信は多賀城攻めを
一旦、諦めざるを得なかった。

だが顕信も黙っていない。
南朝の勢いを東北地方に示すため、
出羽(秋田)藤島城中院(なかのいん)具信(とものぶ)
出羽・越後の北朝方を攻めさせたのである。

こうして、
南朝・北畠顕信と北朝・石塔義房の
東北・上越地方を盤上にした戦が始まったのである。

次回、『奥州南朝勢力の衰退』を書きます。