北畠顕家編ー第31回 東国・南朝勢力の瓦解 | 奥州太平記

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宮城を舞台にした歴史物語を描きます。
独眼竜こと伊達政宗を生み出すまでに
多くの群像が花開き、散っていた移り行く時間を
うまく表現できるように努めます。

とりあえずは、暖かい目で見守ってください。

南朝方の北畠顕信、北朝方の石塔義房
東北統治の要となる多賀城
中心とした戦略を練っていた。

顕信が入奥して1年半後の興国2年(1341)夏。
奥州侍大将・義房の命により、
北朝方の曾我氏南部へ侵攻した。

南部当主・政長は、多賀城攻めの拠点である
三迫(さんのはざま)砦に出陣していたため、
領国を留守にしていた。

虚を衝かれて侵攻されたために
曾我氏は南部氏居城・根(ね)城[青森・八戸]
にまで迫る勢いであった。
急ぎ領地に戻った政長は、根城を中心に
侵略された領地・砦奪還を開始した。

精強を誇る南部軍が、本腰を入れると
形勢は徐々に南朝方優勢に傾いていき、
1年後、曾我氏を南部領からの撃退に成功する。

北東北での戦いに決着が着く頃、
逆に出羽[秋田]・南朝勢力が越後[新潟]へ侵攻を開始した。
相手は、越後守護代・長尾(ながお)景忠(かげただ)

北朝方は、南朝勢力の南下を既に察知していた
景忠は予測した進撃ルート途上に、物見館を構えた。
その物見館の探索網に南朝軍が引っかかった

諜報により南朝軍の攻撃先が大川城と判明すると
景忠は大川城主・大川将長(まさなが)に負けを装い、
葡萄(ぶどう)平まで敵を誘い出すように指示した。

そうとは知らない中院(なかのいん)具信(とものぶ)率いる
出羽・南朝軍は、敗走する北朝軍を追撃した。
そして葡萄平にたどり着いた南朝軍は、
待ち構えていた越後勢の伏兵により
大敗北を喫することとなった。

この敗北により、
奥州の勢力均衡が崩れた。

この半年後、白河結城親朝
北朝方に降伏し
、北朝方として挙兵した。

この結城氏の北朝方への降伏は、
常陸(ひたち)[茨城]で抗戦していた
南朝勢力の瓦解を招いた。

結城氏の降伏から3ヵ月後、
関東における南朝最後の拠点・関城は陥落した。
関城で指揮していた北畠親房
失意の中、吉野へと去っていった。

三迫砦の顕信は既に飛翔できない鳥も同然だった。
その顕信を狩らんとする石塔義房率いる
北朝軍が北上する。
顕信はまさに”カモ”であった。

次回、北畠顕家編 最終話 「三迫の血戦」を書きます。