南朝方の北畠顕信、北朝方の石塔義房は
東北統治の要となる多賀城を
中心とした戦略を練っていた。
顕信が入奥して1年半後の興国2年(1341)夏。
奥州侍大将・義房の命により、
北朝方の曾我氏が南部領へ侵攻した。
南部当主・政長は、多賀城攻めの拠点である
三迫(さんのはざま)砦に出陣していたため、
領国を留守にしていた。
虚を衝かれて侵攻されたために
曾我氏は南部氏居城・根(ね)城[青森・八戸]
にまで迫る勢いであった。
急ぎ領地に戻った政長は、根城を中心に
侵略された領地・砦奪還を開始した。
精強を誇る南部軍が、本腰を入れると
形勢は徐々に南朝方優勢に傾いていき、
1年後、曾我氏を南部領からの撃退に成功する。
北東北での戦いに決着が着く頃、
逆に出羽[秋田]・南朝勢力が越後[新潟]へ侵攻を開始した。
相手は、越後守護代・長尾(ながお)景忠(かげただ)。
北朝方は、南朝勢力の南下を既に察知していた。
景忠は予測した進撃ルート途上に、物見館を構えた。
その物見館の探索網に南朝軍が引っかかった。
諜報により南朝軍の攻撃先が大川城と判明すると
景忠は大川城主・大川将長(まさなが)に負けを装い、
葡萄(ぶどう)平まで敵を誘い出すように指示した。
そうとは知らない中院(なかのいん)具信(とものぶ)率いる
出羽・南朝軍は、敗走する北朝軍を追撃した。
そして葡萄平にたどり着いた南朝軍は、
待ち構えていた越後勢の伏兵により
大敗北を喫することとなった。
この敗北により、
奥州の勢力均衡が崩れた。
この半年後、白河の結城親朝は
北朝方に降伏し、北朝方として挙兵した。
この結城氏の北朝方への降伏は、
常陸(ひたち)[茨城]で抗戦していた
南朝勢力の瓦解を招いた。
結城氏の降伏から3ヵ月後、
関東における南朝最後の拠点・関城は陥落した。
関城で指揮していた北畠親房も
失意の中、吉野へと去っていった。
三迫砦の顕信は既に飛翔できない鳥も同然だった。
その顕信を狩らんとする石塔義房率いる
北朝軍が北上する。
顕信はまさに”カモ”であった。
次回、北畠顕家編 最終話 「三迫の血戦」を書きます。