北畠顕家編ー第29回 奥州南朝の巻き返し | 奥州太平記

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宮城を舞台にした歴史物語を描きます。
独眼竜こと伊達政宗を生み出すまでに
多くの群像が花開き、散っていた移り行く時間を
うまく表現できるように努めます。

とりあえずは、暖かい目で見守ってください。

花将軍・北畠顕家率いる奥州軍上洛戦により
その猛威を足利方は肌身で思い知った。
それだけに東国統治の要として
奥州を押さえることを重要視した。

北畠顕家が生前の折には、
足利一門の中でも有力な斯波家から
将来有望な家長奥州管領として派遣した

家長はその期待に応え、
奥州に北朝勢力を形成し、
南朝の陸奥国府であった多賀城を奪取した。
そのため、顕家は伊達氏の領地にある霊山(りょうぜん)城への
拠点移動を余儀なくされた。

しかし斯波家長は、顕家の第二次上洛戦の折、
利根川の会戦にて敗れた。
そして足利尊氏の息子・義詮(よしあきら)
鎌倉から落ち延びさせた後、自決したのであった。

そこで足利方は、家長の後釜として
足利一門の石塔(いしどう)義房(よしふさ)
奥州侍大将として派遣
した。

顕家の第二次上洛戦によって生じた
奥州での空白期間をうまく活用し、
義房は、斯波家長を喪い動揺していた
奥州北朝勢力を束ねることに成功する。

そのことが、白河結城家を北朝方に
心傾けさせる大きな要因となった。

南朝側も退勢挽回を期して
奥州入りを目指した南朝大船団を派遣するも
途中、暴風雨に遭い失敗に終わった。

その2年後の興国元年(1340)。
北畠顕家の弟顕信(あきのぶ)
鎮守府大将軍に任じ、改めて奥州に派遣したのであった。

顕信は、常陸(茨城)にいる父・親房と今後の方針を確認した後、
葛西氏の居城日和山(ひよりやま)城に入った。

奥州は顕家統治以来、
南朝方に心寄せる武家は多かった。

主な名を上げる。
北奥州[青森・岩手] 南部氏滴石(しずくいし)氏
中奥州[宮城・福島] 葛西氏、伊達氏、田村氏
出羽[秋田]藤島城 葉室(はむろ)光世(みつよ)

石塔義房も負けていない。

彼もまた、北朝勢力を着実に拡げていた。
北奥州[青森] 曾我(そが)氏
中奥州[宮城・福島] 相馬氏和賀氏

この時、白河結城氏は中立の立場を取った。

奥州における南北朝の戦い火蓋は
津軽において切って落された。

動いたのは、南部政長(まさなが)率いる南部氏である。
政長(まさなが)は、顕家と最期まで共にした
南部師行(もろゆき)の弟である。

迎え撃ったのは、曾我貞光(さだみつ)
南部氏は顕家が率いた奥州軍団の中でも
精強を誇る騎馬軍団をもって名を馳せた。

曾我氏も奮戦したが、
戦いは、南部氏の優勢のうちに終わった。
その結果、津軽・安東(あんどう)一族
南朝方に引き入れることに成功したのである。

ここに兄・顕家の意思を受け継いだ
鎮守府大将軍・北畠顕信の反攻が開始された。

次回、「多賀城奪還へ」を記載します。