成瀬巳喜男監督の最高傑作「乱れる」 | トンデモ・シネマの開祖

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「乱れる」成瀬巳喜男監督
成瀬巳喜男は、存命中、商業監督、あるいは職人監督としての評価が殆どだった。しかし、死後もその評価は徐々に高まり、フランスでは成瀬は日本の「第4の巨匠」と讃えた。
(あとの三人は小津安二郎、溝口健二、黒澤明)


その作風は感情を大きく揺さぶるにもかかわらず、 どの映像も写真のように美しく、(溝口健二監督に)「キンタマのない映画」といいしらしめるほど、どんな描写でも最上級の品の良さを感じる。
(因みに僕は溝口作品より成瀬作品の方がウマが合う)
つまり人は皆、貧乏であれ、金持ちであれ、自分や周りが汚い存在とは考えづらいものだ。
そういう点では成瀬巳喜男監督作品は、女性目線で非常にリアルである。

実際、女性映画の名手で、その最高傑作が、僕は「乱れる」だと思う。
高峰秀子と加山雄三のいわゆる純愛不倫ものという複雑な映画で、非常に純文学的な作品でもある。
しかもその殆どが押し寄せる時代の波で小売からスーパーに移行する店主の姿を描くなど、話を聞いたら反対に見たくなくなる人もいると思うが、騙されたと思って観てほしい。

間違いなく、大きく感情を揺さぶられるだろう。

その構図やカメラワークはまるでフランス映画のように美しく情緒的でもあるが、同時に悲しすぎて、それは凝視するのが辛いほどの哀愁に満ち溢れている。

にも関わらず、音楽は爽やかで加山雄三はどこか能天気に見える。

ただ、高峰秀子はまったくの別格
カメラマンの玉井正夫は「成瀬監督は高峰秀子を好きではなかったはず」と言っているが、それは少し違うと思う。
むしろ、愛してはいけない人だという成瀬監督の職人魂がそう周りの者に感じさせたのかもしれない。
どの監督も広報もあるので発言では色々言うが、映像は隠せないものだ。
だからこそ、良い俳優との仕事は映画では重要だと言える。

実際には高峰秀子を撮っている成瀬巳喜男監督の画は誰よりも美しくて、どこか切ない。

加山雄三扮する青年・幸司の愛する気持ちが痛いほど分かるが、それを映像だけで言葉を使わずに観客に訴えるのだから本当にすごい。

実はそういう映像主義的思考は本編のあらゆる所に隠されている。
例えば「橋」。
これは二人の心の境界線である。
例えば「高見の神社」。
これは二人の心の高まりで使われる。
例えば「電車の長旅」
これは二人の心が目的に近づくと同時に世間やモラルから離れていくのに使われる。
途中下車の意味もそういう点では非常に意味深い。


海外では「カサブランカ」など、多くの監督が現代に至るまでそういう演出を重要視しているが、近年の日本映画では予算もあって無視されることが多く、そのため、映画全体が軽くなってしまい、殺人シーンなどの衝撃シーンや恐怖演出のみが映画演出だと信じる若者も増えた。

もう少し言えば、成瀬監督の映像演出こそ見直されるべきで、多くの製作陣に知ってほしい。
映画はただダラダラ面白いか面白くないかレベルで観るのでは観客のする事で、製作者側は見えない分析することで本当に受け継ぐ事ができると思う。
VFXや CGなどのド派手なシーンは誰が見ても分かるので、映画の本来の演出ではないと僕は考えている。
実際、特殊効果は映画よりゲームの方が効果的である。

こういう繊細で感情表現を拡張される見えざる演出は、当時、成瀬巳喜男監督の「雪崩」の助監督だった黒澤明監督などに受け継がれる。

黒澤明も実際、成瀬監督の助手時代を振り返り「多くの学ぶ所があった」と述べている。

黒澤明のマネージャ的存在だった野上照代は「黒澤さんが一番尊敬してたのは間違いなく成瀬さんと著書に残している。