○昨日に引き続き、今日もスラヴ人の歴史を追っていきましょう!ただ、今日は純粋なスラヴ人国家というのは出てきません。ご注意を。

 

●どんどんお願いしまーす!しまっくす。

 

○まず、トルコ系ブルガール人が建てたのがブルガリア王国です!ただ、ブルガール人は大多数の南スラヴ人に同化されていきました。ブルガリア帝国は9世紀に建てられ、いったんビザンツのバシレイオス2世に征服された後、12世紀に復活します。宗教はギリシア正教。こんなとこかな。

 

●宗教をおさえるのがポイントでしたね!

 

○その通り!さぁ、いよいよロシアですよ。ノルマン人のとこで勉強したリューリク率いるルーシ人が建てたノヴゴロド国。そして、さらに南下して建てられたキエフ公国。このキエフ公国のウラディミル1世が、ビザンツ皇帝のバシレイオス2世の妹と結婚したことでギリシア正教が国教化されます。しかし、13世紀に入ると、バトゥの建国したキプチャク゠ハン国の支配下に入る。これを「タタールのくびき」という。タタールとはモンゴルの部族名、くびきは…画像を検索してみてください。

 

●バトゥって、あの1241年のワールシュタットの戦いで、ポーランドを壊滅させたモンゴル人の?

 

○そうです!そんなキプチャク゠ハン国の中で、次第にモスクワ大公国が力をつけてきます。そしてとうとう1480年、イヴァン3世の時にモスクワ大公国はモンゴル支配から独立します!イヴァン3世は、ビザンツ帝国(1453年に滅亡)の最後の皇帝であるコンスタンティノス11世の姪ソフィアと結婚したため、ビザンツ帝国の後継者だと主張します。そして、ビザンツ帝国の都コンスタンティノープルは、ローマを受け継ぐ“第2のローマ”とされていたため、モスクワをそのコンスタンティノープルを受け継ぐという意味で“第3のローマ”と呼ぶようになります。さらにイヴァン3世は、カエサルを意識し、自分のことを“ツァーリ”と呼ばせようとします。

 

●さ…さすがにやりすぎでは…

 

○この称号は、彼の孫であるイヴァン4世の時に正式に皇帝の称号として使用されるようになります。さて、雷帝のあだ名で知られるイヴァン4世ですが、大貴族を弾圧してツァーリズムと呼ばれる皇帝専制主義の基礎を固めました。しかし、彼は家庭内でも雷帝で、親子ゲンカの末、一人息子を杖で殴り殺してしまいます。

 

●この人もやり過ぎかい!

 

○後継者を失ってしまったモスクワ大公国は、これで断絶。あららって感じですね。そこで、選挙によってミハイル゠ロマノフが選ばれ、1613年からロシアはロマノフ朝となっていきます。ロマノフ朝は、この後1917年にロシア革命で滅ぼされるまで、約300年間ロシアの帝政を支えることになります。

 

●そしてソ連に続いていくわけかぁ

 

○そういうこと!じゃあ、ラストスパートやで!続いてアジア系のマジャール人!9世紀頃、現在のハンガリーに移住してきて、先住のスラヴ人と同化し、10世紀頃ハンガリー王国を形成します。15世紀にはマーチャーシュ1世の時に最盛期を迎える。宗教はカトリック。ちなみにハンガリーのハンは、フン族のことを指してましたよね!

 

●ってことは、この地域はフン人、アヴァール人、そして最後にマジャール人って順番で民族がやってきたんですね。

 

○そうなります。よし、じゃあ最後はラテン系のルーマニア人。とは言ってもルーマニアという国は当時ありません。14世紀頃にワラキア公国、モルダヴィア公国が建設されました。宗教はギリシア正教です。もともとここは、五賢帝のトラヤヌス帝の時代に領土となった場所。だからローマ人(ラテン系)の土地という意味で、ルーマニアという名前が今も残っているんだ。

 

☆センターチャレンジ

キリスト教はスラヴ世界にも広く浸透し始めたことについて述べた文として正しいものを、次の①~④のうちから一つ選べ。[02 追試]

① ブルガリア王のリューリクは、ギリシア正教に改宗した。

② キエフ公国のウラディミル1世は、ギリシア正教に改宗した。

③ セルビア人の間では、ローマ=カトリックが広く受容された。

④ ポーランド人の間では、ギリシア正教が広く受容された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

正解は

 

 

○今日はスラヴ人です!スラヴ人はもともとカルパティア山脈の北側の地域に住んでいましたが、ゲルマン人の奴隷となりゲルマン人と共に移動したグループと、そのまま土地に残ったグループが居ます。東欧一帯に残ったスラヴ人は大きく西スラヴ・南スラヴ・東スラヴの3つに分けられる。このあいだに、スラヴ人じゃないルーマニア人(ラテン系)とか、マジャール人(アジア系)が入ってます。

 

●ゲルマン人の奴隷かー…。はっ!もしかして!!!奴隷を意味する英単語のslaveって、「スラヴ」から来てますか!?

 

○そうですね!さて、スラヴ人はみんな同じ宗教かと言うと、そうじゃありません。ビザンツ帝国に近い、東スラヴと南スラヴの一部はギリシア正教。文字はキリル文字というギリシア文字を変形させたものです。一方、西スラヴは、フランク王国や神聖ローマ帝国の影響を受けていてローマ゠カトリックを信仰しています。文字はラテン文字。スラヴ人の中でも試験でよく出題されるのは、ポーランド・セルビア・ロシアかな。

 

●じゃあポーランドからお願いします!

 

○西スラヴに分類されるポーランド人は、10世紀にピアスト朝ポーランド王国を建て、ローマ゠カトリックを受容します。しかし、これが1241~1242年に起きたワールシュタットの戦いでボロボロになる。この時代はモンゴルの全盛期。バトゥの遠征軍によって、ポーランドは壊滅です。ちなみにワールシュタットは「死体の地」という意味。場所の名前からリーグニッツの戦いとも言うのでご注意を。

 

●バトゥ率いるモンゴル軍はめちゃくちゃ強かったわけですね…。

 

○まもなくしてカジミェシュ大王(3世)が登場し、クラクフ大学を建てるなど国の立て直しを図りますが、今度は北方から現れた新しい敵の圧迫を受けることになります。

 

●何者ですか!?

 

○十字軍の遠征が終わり、ドイツに戻って来たドイツ騎士団です。彼らは神聖ローマ皇帝の命令を受け、ポーランドをはじめとするスラヴ人地域への征服…すなわち東方植民を行っていました。そこでポーランドは、同じくスラヴ系のリトアニア人と手を組み、リトアニア゠ポーランド王国(ヤゲウォ朝)を成立させます。そして、1410年タンネンベルクの戦いでドイツ騎士団を撃破!敗れたドイツ騎士団は、ヤゲウォ朝の諸侯となります。

 

●ヤゲウォ朝の断絶後は、選挙王政になるのですね。

 

○その通り!さて、続きましてチェック人は西スラヴでカトリック。スロヴェニア人とクロアティア人は、南スラヴでカトリック。で、セルビア人よ。ここはギリシア正教です。14世紀前半のステファン゠ドゥシャン王の時にはバルカン半島北部を征服して一大国家を築きますが、14世紀末にオスマン帝国に負けてほとんどの領土を取られてしまいました。これは、セルビア人にとって非常に屈辱的な事件でした。

 

●そんなにですか?

 

○1389年、コソヴォの戦いが行われた6月28日は、セルビア人にとって国恥記念日となっています。

 

●国恥記念日!すごい記念日ですね!

 

○記念日には何かが起こるものですよね…オーストリア゠ハンガリー帝国の皇位継承者の夫妻が、サライェヴォ(当時オーストリア領、現ボスニア・ヘルツェゴヴィナ領)を視察中、ボスニア出身のセルビア人青年によって暗殺された事件が起こったのも、6月28日のこと。

 

●まさか!サライェヴォ事件!!!

 

○そう。1914年、第一次世界大戦の始まりですよね。あれは偶然ではなかったのです。

○引き続きビザンツ帝国です。11世紀に入ると、大土地所有者である貴族の勢力が強まり、アレクシオス1世[位1081~1118]の時にプロノイア制が始まります。これは、軍役奉仕の見返りとして、地方の貴族にその土地の徴税権を与えるというもの。

 

●どことなくイスラームのイクター制と似てますね。

 

○西ヨーロッパの封建制とも似てますよ。さて、この時期はセルジューク朝が小アジアに領土を拡大してビザンツ帝国を圧迫してきます。危機感を持ったアレクシオス1世は、ローマ教皇ウルバヌス2世に救援を求める。これに応じてヨーロッパ諸国の王や諸侯がビザンツ帝国経由でシリアに遠征します。これが…

 

●十字軍!!!

 

○その通り!このあと約200年にわたって西ヨーロッパからイスラーム世界へ遠征することになるのです。ところで、領土が小さくなっても、首都コンスタンティノープルはアジアとヨーロッパ、そして黒海と地中海を結ぶ交通の要所として栄えています。地中海貿易で当時一番勢いがあったのがイタリアのヴェネツィア商人。コンスタンティノープルにも駐在員を置いて儲けていました。やがて商売敵としてヴェネツィア商人はコンスタンティノープルの商人を意識し始める。その結果、なんと第4回十字軍ではヴェネツィア商人の誘導によって十字軍がビザンツ帝国を攻撃し、コンスタンティノープルを占領するんです。

 

●助けを求めてきたビザンツの首都を占領するなんて、十字軍も本末転倒ですね。

 

○救急車を呼んだら撥ねられちゃった!みたいなね。コンスタンティノープルを乗っ取った十字軍はここにラテン帝国[1204~61]を建てた。ビザンツの貴族たちは仕方ないから小アジアに亡命政権を立てる。これをニケーア帝国[1204~61]という。その後、ニケーア帝国はコンスタンティノープルを奪還して、ビザンツ帝国を復活させるのですが、もう以前の繁栄はありません。バルカン半島の領土も新興のオスマン帝国にどんどん削られ、事実上コンスタンティノープルとその周辺しか領土がない都市国家となってしまいました。ただ、貿易の利益と千年以上の年月をかけて造り上げてきた何重もの城壁に守られていたため、もう少しだけ生き延びることになります。そして1453年、いよいよメフメト2世率いるオスマン帝国によって難攻不落と言われていたコンスタンティノープルが陥落し、ビザンツ帝国滅亡となります。ちなみにこの1453年。英仏の百年戦争が終わった年でもあるので覚えておこうね。

 

●偶然ですか?

 

○偶然ではありません。もし、百年戦争があと数年早く終わっていて、英仏から援軍が駆け付けていれば…。

 

●まだビザンツは生きながらえていたかも…

 

○最後に、ビザンツ帝国の社会と文化を見ていくよ!

 

●頑張るぞい!

 

○ビザンツ帝国の経済は、ひとえにコンスタンティノープルの立地条件の良さに支えられていました。また、ローマ帝国時代から受け継がれてきた商工業も盛んで、特に絹織物、宝石細工など、輸出用工芸品の製造業が発展していました。

 

●ユスティニアヌス帝[位527~565]の時代には中国から養蚕業を導入していましたよね!

 

○ビザンツ帝国は、荘園制に基づく自給自足の西ヨーロッパに対し、貨幣経済が機能しています。かつてのコンスタンティヌス帝の時代に製造され始めたソリドゥス金貨は、ビザンツ帝国時代もノミスマ金貨という名前に代わって通用しています!

 

●ノミスマ!ぷっすまみたい!そうでもないか!ハハッ

 

○さて、ここからは文化です。ビザンツ文化の世界史的意義は、古代ギリシアやローマの文化を継承し、それをイスラーム世界や西ヨーロッパ世界に伝えたという点。公用語は7世紀以降ギリシア語が用いられました。また、ギリシア正教を東ヨーロッパ各地へ布教した。布教に際し、スラヴ語を書き記すためにビザンツの聖職者たちで考案したのがキリル文字!

 

●あの、ローマ字を反転させたみたいな文字ですね!

 

○美術では、円屋根(ドーム)とモザイク壁画を特徴とするビザンツ様式の教会建築が有名。代表的なものがコンスタンティノープルのハギア゠ソフィア大聖堂。他にも、ラヴェンナにあるサン゠ヴィターレ聖堂や、ヴェネツィアにあるサン゠マルコ聖堂が有名です。また、聖母子像を描いたイコンも、ビザンツ帝国に特徴的な美術です。

 

●あれ?ハギア゠ソフィア大聖堂に4本ロケットみたいなのが立ってますけど、これはビザンツ様式とは関係ないんですか?

 

○これは違うよ!これはイスラームのミナレット!光塔とも言う!ビザンツ帝国がオスマン帝国に占領された後で付け加えられたたものです。

 

☆センターチャレンジ1

ビザンツ帝国やその文化について述べた文として誤っているものを、次の①~④のうちから一つ選べ。[04 追試]

① ラヴェンナの聖ヴィターレ聖堂のモザイク壁画は、ビザンツ美術の代表である。

② ポーランドは、ギリシア正教を国教とし、ビザンツ文化を受容した。

③ ユスティニアヌス帝は、ヴァンダル王国を滅ぼした。

④ ビザンツ帝国は、オスマン朝の侵入によって滅亡した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

正解は

 

 

 

 

☆センターチャレンジ2

ビザンツ帝国について述べた文として正しいものを、次の①~④のうちから一つ選べ。[02 追試]

① ユスティニアヌス帝は、『神学大全』を編纂させた。

② 皇帝レオン3世は、聖像禁止令を発布した。

③ この帝国は、カール゠マルテルの治世下で最盛期を迎えた。

④ 地方に軍管区を置く恩貸地制により、帝国の安定が図られた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

正解は

 

 

●先生。最近、西ヨーロッパの話ばっかりですけど、東ヨーロッパはどうなったんですか?

 

○よし!じゃあ今日は、395年にローマが東西に分裂してからの東ローマの話をしていこう!ただ、都がローマにあるわけでもないのに東ローマ帝国というのはおかしいよね。そこで、ビザンツ帝国と呼ぶのが一般的です!

 

●どうして、ビザンツなんですか?

 

○それは、首都がコンスタンティノープルにあったから!ここはもともと、ギリシアの植民市のビザンティオン!ローマ時代には、コンスタンティヌス帝によって改称されるまでは、ラテン語でビザンティウムと呼ばれていた。だからビザンツ帝国ね!

 

●なるほど!

 

○さて、ユスティニアヌス帝[位527~565]はかつてのローマ帝国の復活を目指し、ゲルマン人に奪われた地中海沿岸地域を奪回します!534年には北アフリカのヴァンダル王国を、555年にはイタリアの東ゴート王国を征服!

 

●ビザンツ帝国の最大版図ですね!

 

○さらに法学者トリボ二アヌスに命じてローマ法を集大成した『ローマ法大全』を編纂させたことも有名!あと、ハギア゠ソフィア大聖堂を改築したのも、このユスティニアヌス帝の時代。あと、中国から養蚕業を導入しました。蚕が作ってくれるのは絹ね。しかし、彼の死後ササン朝ペルシアの侵攻が激しくなり、エジプトやシリアを失って、領土は縮小します。

 

●ササン朝ペルシアって懐かしいですね。ビザンツ帝国とササン朝ペルシアの抗争が、イスラーム成立の背景にあるんでしたよね。

 

○そう!紛争を避ける過程でアラビア半島のヒジャーズ地方が繁栄するんです。さて、ギリシア語をビザンツ帝国の公用語としたヘラクレイオス1世[位610~641]の時代、イスラーム勢力が急速に領土を拡大してくる中で、イスラームとの戦争のための新しい制度が生まれます!それが軍管区制と屯田兵制。軍管区制はテマ制ともいい、地方の軍司令官に行政権も与える制度です。

 

●まさに臨戦態勢ですね!

 

○その地方軍の兵士は、普段は農民です。農民たちは租税を免除される代わりに戦争になったら武器を自弁して戦わなければならない!もし、負けて領土を奪われれば、自分たちの土地を失っちゃって食べ物が作らなくなっちゃうわけですから、農民も必死になって戦う。これが屯田兵制です。

 

●まさに兵農一致ですね!

 

○ここで宗教についてみておこう!ビザンツ帝国は、皇帝教皇主義。皇帝がキリスト教会のトップなんですよ。ビザンツ帝国は常にイスラーム勢力と国境を接して争っているので、宗教面でも対抗心旺盛。イスラームとの関係で皇帝レオン3世[位717~741]が726年に出したのが聖像禁止令ね。皇帝教皇主義に不満を持つ修道院勢力を抑え込む目的がありました。

 

●あずま君がキョーコをスタバに呼び出して言ったあれですね!

 

○そうそう。この聖像禁止令がローマ教会とコンスタンティノープル教会の対立を生むことになる…って話はもういいかな?ローマ帝国時代に各地に五本山と呼ばれる大きな教会ができるんだけど、ローマ教会もコンスタンティノープル教会もそのうちの1つで、以前から高い権威をもって張り合っていた。ローマ教会は西ローマ帝国が滅んだ後、ビザンツ帝国と協力関係にあるんだけど、イタリア半島は既にビザンツ帝国の領土じゃないから、実際にはビザンツは頼りにならない。そこで、キョーコは生き延びるためゲルマン人に一所懸命布教をして、教会の存続をはかっていたんです。で、キョーコはゲルマン人に布教する時に聖像を使っていた。わかりやすいからね。だから、キョーコにとって聖像を使用できなくなるというのは死活問題です。そこで、キョーコはあずま君の方針に反対する。もともと、キョーコは皇帝教皇主義にも不満があったから、こうして両者はケンカ別れとなる。やがてローマ教会はローマ゠カトリック、コンスタンティノープル教会はギリシア正教と呼ばれるようになります。両教会の分裂の背景という意味で、聖像禁止令は重要なんです。

 

●めっちゃ喋りますね。ようは、726年の聖像禁止令をきっかけに、1054年の東西教会の分裂が起こったというわけですね。

 

○そういうこと!さて、ビザンツ帝国はバシレイオス1世[位867~886]の時代にマケドニア朝が始まり、帝国の繁栄を迎えます。これはコンスタンティノープルの立地が、商業上の利益をもたらしたから。バシレイオス2世[位976~1025]の時には、皇帝の妹がキエフ公ウラディミル1世のもとへ嫁いだことで、ロシアへギリシア正教が伝播しました!これ、意外と重要ね。

 

 

☆センターチャレンジ

ユスティニアヌスについて述べた文として誤っているものを、次の①~④のうちから一つ選べ。[09 本試]

① 聖ソフィア(ハギア=ソフィア)聖堂を建設した。

② 北アフリカのヴァンダル王国を滅ぼした。

③ イタリア半島の領土をすべて失った。

④ 『ローマ法大全』を編纂させた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

正解は

 

○13世紀に入ると、托鉢修道会が登場します。この修道士たちは何の財産も持たず、信者の施しを乞うて(=托鉢)生活していきます。その代表が、中部イタリアのフランチェスコ修道会と南フランスのドミニコ修道会。特にドミニコ修道会は、異端であるアルビジョワ派の弾圧を行いました。

 

●アルビ…アルビジョワ派…?

 

○マニ教の影響を受けたキリスト教カタリ派の、南フランスでの呼称ですね!

 

●あ、なるほど!…なるほど?

 

○さぁ、13世紀初め、教皇権はインノケンティウス3世[位1198~1216]の時に絶頂期を迎えます!彼は「教皇は太陽、皇帝は月」と豪語し、皇帝に対する優位性を誇示し、1209年にはジョン王を、カンタベリ大司教の人選を巡り、破門しています。また、第4回十字軍を提唱したのもこのインノケンティウス3世でした。

 

●教皇権の絶頂=インノケンティウス3世!!!覚えました!

 

○さて、約200年にわたる十字軍が失敗に終わり、教皇権が弱まったところで聖職者への課税案が浮上してきます。聖職者には、当時も税金がかかりませんでした。しかし、フランス国王フィリップ4世は、聖職者へ課税をしようと、1302年には身分制議会の「三部会」を初開催。時の教皇、ボニファティウス8世[位1294~1303]は、これが気に食わないので必殺破門ビームを繰り出します。

 

●出た!破門ビーム!これでフィリップ4世もおわりですね…

 

○しかし…効かない。当時のフィリップ4世は、破門されて家畜になろうが、配下の諸侯たちを従わせるだけの実力があったんです。それどころか、なんとフィリップ4世は、ボニファティウス8世をローマ近郊のアナーニというところに幽閉。これが1303年、アナーニ事件です。ボニファティウス8世はあまりの悔しさから解放後に怒り狂い憤死してしまいます。

 

●憤死!悔しさMAX!!!

 

○そして、間もなく教皇庁はフランスへと移されます。1309年より、教皇庁が南フランスのアヴィニョンに移された時期を“教皇のバビロン捕囚”[1309~1377年]と言います。その後、教皇がローマへ戻ると、アヴィニョンにもフランスの後押しを受けた別の教皇が登場し、両教皇とも正統性を主張して対立します。さらにはピサにも教皇が出てきてしまう。これを教会大分裂(=大シスマ)[1378~1417年]と言う。1054年の東西教会の分裂と間違えないように!

 

●大シスマは、あくまでもローマ゠カトリック教会の中の分裂ですもんね。

 

○さて、この状況を受け、聖書こそ信仰の最高の権威である!という聖書主義を主張する2人の人物が登場します。一人はイギリスのオクスフォード大学で聖書をラテン語から英訳していたウィクリフ。もう一人は、ベーメンのプラハ大学で聖書のチェコ語訳をしたフスです。のちのルターによる宗教改革の先駆けですね。結局、1414~1418年に神聖ローマ皇帝ジギスムントによって開催されたコンスタンツ公会議で、ローマ教皇を正統として教会は統一され、教皇を批判したフスは火炙りの刑となってしまいました。

 

●大シスマ終了ですね。

 

○教会の統一以降、ローマ教皇権の復活を強調するため、教会は文化に力を入れます、これがイタリア゠ルネサンス!当時の教皇はレオ10世[位1513~1521年]です。サン゠ピエトロ大聖堂改築資金を集めるために贖宥状を販売した教皇ですね。そして、1545年のトリエント公会議で、教皇パウルス3世[位1534~1549]は「宗教改革なんて認めないぞ!カトリックこそ最強!」とアピールし、対抗宗教改革を打ち立てます。これ以降、教皇の力は上がりも下がりもせず現在に至る…というわけです。

 

●1545年だから…“以後、横ばい”のトリエント!ですね。

 

 

☆センターチャレンジ

ローマ教皇について述べた文として正しいものを、次の①~④のうちから一つ選べ。[13 本試]

① インノケンティウス3世の時、教皇権は絶頂に達した。

② レオ3世は、フィリップ4世に捕らえられた。

③ ウルバヌス2世は、第4回十字軍の派遣を提唱した。

④ レオ10世は、贖宥状の販売を禁止した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

正解は