僕の心をあなたは奪い去った

俺は空洞 でかい空洞

全て残らずあなたは奪い去った

俺は空洞 面白い

馬鹿な子供がふざけて駆け抜ける

俺は空洞 でかい空洞

いいよ くぐり抜けてみな 穴の中

さあどうぞ 空洞




空洞です/ゆらゆら帝国(映画『愛のむき出し』主題歌)




以下、俺なりに解釈。

空洞ができるためには、そこに存在がなければならない。

密度の高い壁のような何かが。

何もないところに空洞はできず、そこにあるのは空間。

空間を支配する唯一の存在が人間だとしたら、空洞は、まさに人間そのもの。

人間は空洞なるもの。

空洞をくぐり抜ける様々な出来事が、空洞をくぐり抜けることを前提として駆け抜ける。

壁があって、壁をくり貫いて空洞を作り上げていくことで、人は社会における空洞という存在性から脱却し、自分の中に真の空洞を貫通させることができる。

空洞は、自分自身でなくその内にある。

あなたは、空洞ですか?
今日、日付が変わる直前に、愛媛の親友に電話した!

19時くらいから飲んでたのだが、飲んでいる居酒屋のトイレが店の外にあり、頻繁に外に出ている内に、店での友達との開かれた会話であるはずなのに閉息的な感覚に襲われて、店の外で携帯の電話帳をスクロールすると同時に、そいつに電話していた。

例のダメ人間日記なるものを執筆しているやつだが、もう一度言う。俺はお前をダメな人間などと思っちゃいない。また、お前自身が自身のことを純粋にダメな人間だと思う上で感情の一極端な面を吐露している訳ではないと思っている。

俺には毎度その様々な感情が一つの表現にも思えるほどで、俺はやつの文章を一種のストイシズムとして尊敬さえしている。

そんなやつが、さっき俺が久々に、突然電話した時に伝えた、いくらかの言葉を聞いて、新たな作品を生みだした。

たわいのない会話だった。やつとのやつの周りには最近少なからず変化があったようだ。そのことを知ってとりあえず元気かどうかを知りたかった。

変化にはいろいろあるが、俺にはやつの変化が大きな決断と気合いを伴っているように思えたので、その変化に対して彼が消費したエネルギーを感じたかったのかもしれない。安定した時を刻む俺とは違い、生活に直結した変化とそれに伴う決断と成長を繰り返しているやつを身近に感じたかったからかもしれない。


この文章は、俺がやつの友であるからこそ理解できたり迫る感情があるのだが、たまらなくなって掲載した。


http://yanyan1218.blog45.fc2.com/?mode=m&no=70

こんなアウトプットをする奴が、本当はクリエイティブであるのではないか。

そう思うと俺は、今とてつもなく泣きそうなくらい感動していると共に、とてつもなく起きあがれないくらい不安になっている。
観れば観るほど、分からなくなってくる。

ザ・ビーチやファイトクラブの世界観がすごいとか、ユリイカや愛のむき出しの脚本がすごいとか、大後寿々花や永瀬正敏がいいとか、感動や変化は必ずと言っていいほどある映画の力。

たぶん俺は映画信者なのだが、教祖ではない。

映画を信じつつ、映画というカテゴリーがあらゆる映像ジャンルの垣根を越えて進出し、かつ征服されている昨今において、映画の教祖となることは生産的とはいえない。映画はもはや、映像という原点に回帰し媒体を意識しない何かで仕掛けていかねばならない。

現状、タランティーノに及ばない一人の信者として、タランティーノとは違う武器を持ち、存在しない映画の教祖をあっと言わせる映画を撮るのだ。

映画(映像)は、近い内に社会や政治経済、事件や生活と同等の扱いをされる日がやってくる。それは、映画に込められた身近な共同体の葛藤が世界との関連性を強固にするという目標、人々の意識へのテロ。史上皆無、空前絶後の慈悲深きテロ。

現実にも映画の中にも空間がある。だが、生活空間は映画と現実の狭間にある。