たった一人の理解者がいなくなった今

俺は何に抵抗することもない

そこに愛があるからこそ 自由を求めた

俺の中で現実が融解した
俺を映す鏡が君ならば 現実を映しだすのも君だから

君を失った今 孤独に主張することが現実を構築する

そう開き直るのに 時間がかかりすぎた

それも現実 それも自分それが世界

道化師を崇める世界は終わりにしよう

君が眠りに落ちる瞬間に在った世界が 君が目覚める瞬間に

少しでも明確な温度を示すように

俺は心を覚ます

孤独な一瞬を無意味と思わない君のために

俺は意味を創造するんだ

この世の果てしない麻痺した酸素を吸って

窒息しないのは 君の香りのおかげだよ

この世が一番付加価値の大きいものを 探す旅人のような人ばかりでも

意味は溢れている

そう 君の香りのように



O2/THE VS THIS
成田ロケ、終了しました。某組クランクアップです。

成田はでかいな。第2ターミナルで撮影だったんだが、出発ロビーのでかさに驚く。世界につながる窓口だから、必要な広さなんだけど、羽田のANAの出発ロビーの10倍くらいありそうなフロア面積。世界のユニクロの印象的なロゴが目立つ。

さらに隣接する公園が航空機がきれいに見えるスポットで、実景撮りに行こうとすると、ただでさえバカでかい成田空港の敷地をいったん出て、成田市街を走ってUターンして来なきゃならないというギャグのように撮影には不都合なロケーション。

役者なのにアップ後もハイエース便に乗る関係で残ってくれ、率先して道を人に聞いてくれたヘンちゃん(ヘンドリキさん)に負けられないと近くのホテルの正面玄関まで300メートルくらいダッシュしたら、ホテルマンに丁寧に道を案内され、付近のマップまでくれた。

トムハンクスとキャサリンゼタジョーンズの『ターミナル』で観た、旅行客の間を縫うように走る、ゴルフ場でキャディーさんが乗るような、電動4輪車を探したら、走っていた。しかも後ろに荷物を大量に牽引して。

動く歩道で撮影すると、行き交うパイロットとコーパイ、フライトアテンダントの列。肩に4本の金のラインが入った機長の制服、やっぱかっこいいな。遠くから歩いてくるバディを観ていると、今何千キロの空を数十メートルの巨体を操って飛行してきた勇姿に、浮かんでくる責任や冷静、ロマンといった言葉を体現する職業的な姿勢を感じてまるで有名人にあったような気分だ。

ある町の住民、あるいは渋谷のようなでかいスクランブル交差点を行き交う人、もしくは新宿駅から出てくる人が皆、フライトアテンダントのような人だったら、その場所は明るくなって、犯罪も暗いニュースも無くなるんじゃないかと言うほど常態が笑顔だ。破顔ではなく、お淑やかな微笑み。今の喩え、非常に伝わりにくいと思うが、すべてを包み込むような女神のような微笑は、こちらがガン見しても狂うことはない。

しかも見られているからというような振る舞いじゃないんだなー。常に人に見られることを意識して表情を作るモデルや女優とは違う、心を基点に微笑み、そこに佇んでいるような吉永小百合のようなイメージ。

主演の藤原さんと初めてあった日、撮影は雨のため午前に中断したんだが、雨あがるのを待っている間、役者の演技の話をしていた。というより、藤原さんから主に演技の方法論の話を聞いた。

演劇界にはルコック演技とメソード演技という2種類があるらしい。

ルコックは人名で、同名の役者が実践し、確立された理論らしく、心を基点に体で表現するというもの。ルコック演技の代表的な作品に『ゴッドファーザー』がある。アルパチーノはルコックの代表的な役者らしい。

たとえば、恋人がなかなか待ち合わせ場所に来ないのを心配して気を落ち着かせるためにたばこに火をつける演技をするとしよう。

まず、たばこに火をつけるという動作の記憶とか概念を取っ払い、頭を空っぽにする。で、思い切り、恋人がいて、死ぬほど愛しているという自分になりきる。なりきった状態で、いざ、初めて手に取るも同然のたばこに火をつける。すると、何か起きるのではないか。恋人が心配でならない感じが、素直に演技に反映され、たばこを手に持つ感じとか目線、雰囲気がリアルなものになる。

ここで大事なのは心から演技に入ると言うことだ。台本を読んで、たばこを吸うシーンがあるからかっこ良く吸おうとかいう邪念が介入することは、ルコックに反してあるわけだ。

逆に、メソード演技はマーロンブランドやジェームズディーンに代表される体から演技に入って心に還元するという手法で、まず体の動きから演技を構築し、その一連のアクションから見えてきた心の演技を後付けするという方法だ。マリリンモンローもそうだったそうだ。

欧州ではこのルコックとメソードの派閥が対立して、いつもマエストロが一同に会する席では議論が加熱するらしい。

しかし、線引きが不透明なのも確かで、藤原さんも言っていたが、心で思ってることが体に反映されたり、体の動きが心に影響したり、人間のありようは常に変化しているし、どっちがいいとは言えない部分もある。

そんな演技スタイルの分類があったのかと初めて知り、そういう観点で映画を観たことが無いから、俺自身その差を言葉で理解できても、まだまだどちらが良いかを感じ取るにはほど遠いが、一つ、映画を観る楽しみが増えたのだ。藤原さんには感謝している。

ん?待てよ、じゃあ堂々と俺があのジャンボ機を飛ばして着陸させたんだぜと胸を張って歩くパイロットはメソードで、まだお飲物はいかがですか?と今にも言ってきそうな雰囲気で軽やかに歩くフライトアテンダントはルコックなのか?

だが、逆もしかりか。分からなくなってきた。というより、俺自体がルコックとメソードの違いを理解できてないのだな。
あなたはルコック派?メソード派?それとも?
連休も終わり、9月もあと一週間。

10日から友達の卒業制作の現場に演出部として参加している。

今月頭にインしたこの作品も明後日の成田空港ロケでクランクアップの時を迎える。

参加のきっかけは極めて偶然だった。たまたま出会った友達が手伝っている現場に人手が欲しいんだが参加してみないか?

俺は右手を挙げた。やるよ、暇だし。こうして、たわいもない日常は少し慌ただしさを増した。

現場では主にカチンコと機材運搬、状況伝達のための声だしをやる。

久々に打つカチンコの乾いた音に心地よさを感じながら、自主映画とは言え、劇映画の撮影のような周囲の職人ぶりに一瞬で真剣にやろうという心構えができあがる。

この組では、平均して一日に5、6カットを撮る。所沢ロケでは10カットを越えたが、それにしても、ワンカットに対する気合いの入れようはすごいのだ。

劇映画だったら俺たちより洗練されたプロ集団がやるからセッティングにかける時間が大幅に短縮されるだろうが、探り探りの撮影であることも確かで、こだわり始めるときりがない映画の世界の末端にふれた思いがした。

主演は劇団に所属し、制作も担当する立場にあり、若手の育成や海外のマエストロとも交流があるベテランの役者さんだ。つい先日、オールアップを迎えたが、セッティングに時間のかかる現場をよく堪えて気持ちを繋いでくださった。

声をかけてくれた制作の友達と助監督の一人、照明部の一人としか面識がなかったものの、初日から若干出しゃばり気味で動いていたら自然と仲良くなっていた。今では現場がアップすることが早くも名残惜しい。

最初は誰この人?みたいな印象を与えたかもしれない。なんせ途中参加なんだ。でも、日を追うごとに皆が俺の存在を受け止めてくれる。次第にお待ちくださいという声に各部が応答してくれるようになった。

監督は女だが基本的におっけえを出すのが早い人で、声がかわいい。

俺は何度も声でかすぎて少し音量を押さえてと注意されることが多くて、それもどこかで自分が監督をするなら声は通る方がいいだろうという漠然とした職業意識が影響しているのだろうが、まず、目立つことが鍵になる場合もあるだろうし、声に苦労しない分、客観的にみて、今自分ができることは何か考えて動くことが昔よりはスムーズにできるようになった気がする。

何かに手がいっぱいで声を出すことを忘れている瞬間。ふと周りを見ると、会話に詰まったあのときのように、何か円滑さに欠けている雰囲気に晒される。

たとえば照明のセッティング中に音声さんは待ちぼうけを食らうが、そこで状況を伝え、近くにいても照明→音声という直接のやりとりではなく、照明→助監督→音声というように通訳のような人間が声を出し、現場全体を一部から全体的な志向性に持っていくという役割が必要になる。

野球チームにおいて、監督の指示が直接選手全員に伝えられることもあるが、間にキャプテンが入ることもあり得る。ようは助監督はある種キャプテンのような存在でなければならない。皆の気持ちを盛り上げて、どうにかいいカットを撮って帰ろうと背中を押すのだ。

まあ、結局技術面でノウハウのない演出部はホームランバッターにはなれない。ピッチャーにもなれない。セカンドに強烈な当たりが飛んだときに、すかさずカバーに入るライトのような存在だ。なかなか周りにアピールできない。でも、気持ちは気を抜かない。見えないところで、画に加担している。

きれいごとを書きすぎだが、思い上がりもいいとこだと言わせるほど、仕切りたい人が、助監督には向いている気がする。俺はと言うと、仕切っているように見られることに妙な抵抗を感じつつも、思い切ってやっている。