戦争の聞き書き1・2
今日は8月15日、76年目の「終戦の日」です。
今年はコロナ禍の影響で、例年のさまざまな関連行事も、取りやめたり縮小されたりで、
戦争の時代に思いをはせて犠牲者を悼み、
それを通して不戦の教訓を得る機会も減ったように思います。
とうさんもかあさんも戦後の生まれで、戦後の貧しい時代はかすかに覚えていますが、
76年の月日が過ぎて実際の戦争体験をなさった方は年ごとに減り、
記憶は風化してゆくように思います。
今も世界のどこかでは、いつも戦争があり、戦争の予感があります。
記憶は決して、風化させてはならないのです。
下は、3年前に書きました、かあさんの両親の体験記です。
手前味噌になりますが、もしお時間がございましたら、お読み頂けましたら光栄でございます。
2018-08-14 14:20:54
戦争の聞き書き1
https://ameblo.jp/westy-figlio/entry-12397809119.html
73年もの月日がたち、戦争の悲惨さを直接経験した人達も年々減少する中で、
戦時中の記憶が薄れ、伝える人達がいなくなる前に、
何回かにわけてかあさんが伝え聞いた両親の体験談をお話ししようと思います。
父は若い裁判官でしたが、満州国の日本人町に裁判所を作ることを命じられ、
幼い兄と姉と母を連れた家族ぐるみで、現地に赴任しました。
急ごしらえの官舎は寒風が吹き込み、布団に雪がつもる暮らしでしたが、
母はここで、自力で、父と二人だけで、3人目の赤ちゃんを産んでいます。
裁判所が出来る前に、日本は敗戦となりました。
日本人町を護衛するはずの日本軍は一番先に逃げ出し、
町の人々は集団で帰国の港に向かいましたが、船に乗せて貰えず又町に戻ってきました。
吹きっさらしの無蓋車を乗り継ぎ、危険におびえながら。
それから1年以上、送金が止まった父も、町の人々も苦難の日々を過ごしました。
ある日、餓えた人々は相談し、結束して日本軍の食品庫に盗みに入りましたが、
護衛兵から機銃掃射され、命からがら逃げ帰ったそうです。
同胞の餓えた民間人を、食料を分けることもしない日本軍が背後から撃つとはと、
語った父の眼に涙が光っていました。
長くなりましたので、続きは明日とさせて頂きます。
2018-8-15
戦争の聞き書き2
https://ameblo.jp/westy-figlio/entry-12398006520.html
昨日に続き、父たちの戦争体験その2を書かせて頂きます。
たくさんの感動的な体験談があふれる中、一つの平凡な家庭のエピソードですから、
退屈と思われる方はどうぞ読み飛ばして頂きたいと存じます。
ある日、ソ連軍が進駐して来て、日本人町の各戸を臨検しました。
父は国家公務員でしたから、戦犯としてシベリアに抑留される可能性があり、
母は大急ぎで畳を上げて、床下に父を隠しました。
あまり慌てたので床わくを入れ忘れ、ブヨブヨする畳の上に母は必死に座りこんで、
ソ連兵を近づけなかったそうです。
あの優しかった母のどこに、そんな強い力があったのでしょう。
1年余の苦難の日々の後、一家と日本人町の皆さんは、
アメリカの貨物船に救われて帰国が叶いました。
日本軍が見捨てた日本人を、敵国だったアメリカが、帰国船を出し助けてくれたのです。
そしてそれが、最終の帰国船でした。
この貨物船の底のひしめいた船倉で、1歳足らずの兄は病気がうつり、
帰国後間もなく命を落としました。
百日咳かはしかか現代なら助かる病気でしたが、衛生状態も栄養状態も悪い時代だったのです。
この苦難の逃避行をした五人家族のうち、存命なのは長姉だけですが、
彼女とて2歳の幼女でしたから、当時の記憶はまるでないそうです。
帰国した父は大阪地裁に復職し、その後検事と弁護士を歴任して、
正義とリベラルを貫いた法曹人として、七八歳の人生を終えました。
かあさんは今でも、父の価値観をバックボーンにして、父に教えを乞いながら生きています。
長々とお読み頂き、ありがとうございました。
今日は、フィリオの17歳のお誕生日です。
急速に老化が進み、心配な状態だったり持ち直して安堵したりを、繰り返しています。
私共の可愛い我が子であり、かあさんのかけがえのない親友でもあるフィリオは、
今、かあさんに老衰とはどういうことかを教えてくれる、大切な人生の師となっています。